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【新島八重】
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戊辰戦争への道
江戸では徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎。
江戸城は「無血開城」となり、政権交代は終わったはずでした。
しかし、戦いは終わりません。
長州藩は、一時期、朝敵認定された怒りと恨みがあります。
京都守護職であった会津藩。「薩摩御用盗」取り締まりのため、薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩。
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この二藩を徹底的に潰してこそ、幕府を支持する声を消すことができる。
痛い目にあわせれば、薩摩と長州を中心とした新政権に反抗する声も抑えつけることができる。
そうした思惑から、東北へと戦火が広がることとなるのです。
しかし、奥羽の諸藩からすれば、この処分は不可解なものでしかありません。
会津藩主・松平容保の首まで容赦なく求める長州らに対して、仙台藩が異議を唱えました。
こうして【奥羽越列藩同盟】が結成され、戊辰戦争への道へと日本は突き進んでゆくのです。
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天皇と、将軍家への忠義に苦しめられ
幕末の会津藩で語られる悲劇。
それは、保科正之から伝わる『御家訓』の呪縛です。
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もうひとつ、孝明天皇の『御宸翰』をはじめとする信頼の数々。
生真面目な容保は、危険であると諫められながらも、この二つの縛りにがんじがらめにされていました。
孝明天皇の信任を守るあまり、長州藩に厳しい態度を取らざるを得ない。
徳川慶喜も忠誠心を見込んで、実弟の喜徳を会津藩の養子に送り込みます。
いつか京都守護職をやめて帰国しなければ、危険であるという認識はありました。しかし、生真面目な容保はそのタイミングを逃したのです。
一方、会津をなんとしても責め立てたい倒幕側は、厳しい態度を取ります。
「松平容保の首を寄越せ!」
そう強硬に主張したのです。
江戸時代を通して、武士は主君の首を守ることこそ、最も大事であるとされてきました。
これを知っているからこそ、松平容保は、長州征伐において「長州藩主の首を求めることは過剰だ」と進言したほどです。
江戸無血開城の時、西郷隆盛は山岡鉄舟から「あなたたちが島津の殿の首を求められたらどうするのか?」と説得され、応じたという経緯もあります。
にもかかわらず、長州を中心とした西軍は松平容保の首を要求してきた。
さすがに仙台藩や米沢藩も疑問を感じ、赦免を嘆願します。
奥羽の諸藩は、秋田藩のような数少ない例外を除き、奥羽越列藩同盟に加盟しました。
しかし長州藩には、孝明天皇の憎しみをかい、朝敵とされた怨恨があります。
長州藩士らは禁門の変のあと【薩賊会奸】と履物に書き付け、踏みつけていたほど。薩摩とは和解しましたが、会津には憎悪しかありません。
ここで会津はじめ奥羽諸藩を倒してこそ、自分たちの新政権を倒そうとする抵抗勢力はいなくなるはず。そんな思惑もありました。
このあたりにも、きな臭さがつきまといます。
長州藩内でも、会津藩に寛大な処分を求めた広沢真臣がおりました。
彼は米沢藩の雲井竜雄と協力しておりました。
これに対して、会津藩強硬処分を求めたのが木戸孝允です。
そして結果は……雲井が明治3年(1870年)2月、反逆者として斬首。
広沢は、明治4年(1871年)1月、暗殺されてしまいます。
こうして、長州藩内にすらあった会津への寛大な処置という見方は、歴史から消えていったのでした。
油壺のような奥羽に、火をつけた男がおります。
倒幕側が派遣してきた世良修蔵たちです。彼らの傲慢さは、奥羽越列藩同盟側の神経を逆撫でします。
遊女を侍らせながら傲慢な態度を取る世良に、奥羽の武士たちは神経を逆撫でされていました。
この世良は、出羽方面に展開していた大山格之助に、こう書いた書状を送ったのです。
「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」
【訳】奥羽は皆敵だからぶっ殺す
この書状を見た仙台藩士の怒りが限界に達し、世良は殺害されました。
戦争回避の道は、どんどん遠ざかってゆきました。
どうやら奥羽や越後へ派遣された人たちはトラブルメーカーばかり。
出羽の大山格之助、越後の岩村精一郎などです。
西軍内部から見ても、あの人選はどうにかならないのかと思われていたほど。
はなから、そういう意図があったのでしょう。
会津、悲愴な決意
会津藩も無策ではいられません。
プロイセン人のシュネル兄弟から武器を買い付け、年齢別の部隊を組織します。
白虎隊:16〜17歳
朱雀隊:18〜35歳
青龍隊:36〜49歳
玄武隊:50〜56歳
八重の父・権八は、玄武隊に所属しました。
会津藩士とその家族には、悲壮感が充満しています。6年間、京都守護職をつとめ、都を守ってきたのに、それが報われるどころか、仇となってしまったのです。
山本家には、三郎の遺髪と形見の軍服が届けられました。
「なじょして、三郎は死んじまっただ……」
八重は悲嘆に暮れます。
さらに、兄・覚馬が京都で捕縛され、処刑されたという悲報まで届くのです。
「まだ決まったわけでねえ。覚馬の死に顔を見るまでは、信じねえ」
佐久はそう慰めますが、八重の胸には怒りが充満してきます。
「ゆるせねえ……あんつぁまと三郎の無念、そして会津のために、殿のために、わだすは戦う!」
こう強く決意を固めたのは、八重だけではありません。従軍できない老人、少年、婦人に至るまで、戦うと決意を固めた人々が会津には大勢おりました。
西軍の回想でも、武装して立ち向かった女性を殺害した苦しみを語るものがみられます。
彼らがここまで追い詰められていたのは、西軍の態度があまりに理不尽かつ傲慢であったことも一因でした。
都の治安を守るため。
孝明天皇のため。
苦難を続けてきたのに、かえってそれが朝敵とされて襲われようとしている。
こうなれば、死を覚悟してでも戦わねばならないという、絶望感も根底にあったのです。
※会津若松市の「戊辰150周年」映像。そこには明治維新を祝う雰囲気はありません
会津藩の戦術は、失敗が続きました。猪苗代方面の防衛に失敗し、十六橋の爆破が遅れ、敵軍の通過を許してしまったのです。
慶応4年8月23日(1868年10月8日)。
急を知らせる鐘が鳴る中、会津藩士の対応は、家ごとに異なります。
女子供が、足手まといになることを恐れ、自害した家は多くありました。
こうした犠牲者の人数は233名におよびます。
家老・西郷頼母の一族は、21名が自刃。
土佐藩士・中島信行(※別人説あり)が西郷屋敷に足を踏み入れると、女たちの屍が重なりあっています。
まだ17歳くらいの少女が、死にきれずにこう尋ねます。
「敵か、味方か……」
「安心しなさい、味方だ」
中島はそう言うと、少女の命を絶ちました。
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あまりの惨さに、中島は涙を落とします。
この少女は、西郷家長女の細布子とされております。西郷屋敷は「会津武家屋敷」として現在内部を見学できます。
三郎の軍服、腕にはスペンサー銃
三郎の形見である軍服を身につけた八重は、籠城へ向かいました。
このとき、八重はスペンサー銃とありったけの弾丸、大小の刀を身につけております。
八重だけではなく、長刀で武装し、白無垢を血塗れにした女性たちもおりました。戦い、傷ついた家族を介錯し、ここまでたどりついた女性たちです。
城内は、予備兵力である白虎隊や玄武隊、そして女性や子供ばかりです。
八重はスペンサー銃を装備し、狙撃の腕を発揮しました。
会津藩士の装備は、旧式のゲベール銃や火縄銃です。
スペンサー銃は最新式。
八重の守備位置を目指した西軍は、次から次へと指揮官が銃撃されます。
大山弥助(のちの巌)の右大腿部を狙撃した者は、八重とされております。狙撃距離や精度を考慮すると、ありえることです。
2013年の大河ドラマ『八重の桜』の冒頭は、この場面から始まりました。
八重は紛れもなく、会津藩屈指の狙撃手でした。狙撃ポイントを作るために塀を蹴り落とす等しながら、果敢に戦ったのです。
8月28日、新たに女性の一団が城に入り込んで来ました。
「あなたが味方にならないことを、卑怯だと思っておりました。しかし見ているとわかります。長刀では、鉄砲には叶わない。竹子に教えてやってくれませんか」
そう語る彼女は、中野孝子です。
娘である竹子、優子らとともに「娘子隊」(女性部隊)として出陣。萱野権兵衛に従軍を願い出て、長刀を抱えて戦場に立ったのです。
彼女らの目的は、容保の義姉・照姫の警護でした。
が、涙橋での乱戦で、竹子は胸に銃弾を受け、戦死を遂げます。
彼らは萱野に促され、入城してきました。
※県立葵高校による娘子隊慰霊の舞踏。竹子と優子姉妹を表しており、倒れた姉を妹が支える振付をします
城の周囲を、彼女らと女中が取り囲み、警護と負傷者治療にあたりました。
ある夜、八重は夜襲出撃を聞きます。
彼女は親友の時尾(高木盛之輔の姉、斎藤一の妻)に頼みこみます。

新選組斎藤一のお墓/photo by Rikita wikipediaより引用
「時尾さん、髪を切ってくんつぇ」
断髪した八重は、スペンサー銃で敵を襲撃。かなりの手応えを感じました。
翌晩も出撃しようとしたところ、12歳くらいの少年10人ばかりが出撃したいとついてきます。感動した八重は、容保に許可を取りに向かいました。
しかし容保は、女子供が出撃しては恥であると止めたのです。
八重はそのあと、籠城する600人もの女性たちを指揮することになりました。
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