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【新島八重】
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籠城する女たち
籠城する女性や子供たちにも、出来ることはあります。
・炊きたての飯を、火傷しそうなほどの熱さをこらえつつ握る
・敵の目をかいくぐりながら、食料調達に向かう
・子供たちが不屈の意志を示すため、会津名物・唐人凧を揚げる
・銃弾や金属片を溶かして、新たな銃弾を作る
あるとき、八重は二人組になって握り飯を運んでいました。
そこに砲弾が落ちて、煙がもうもうとあがります。
八重はやっと立ち上がって、相手の顔を見て大笑いしました。
「おめえ、顔が煤で真っ黒だべした!」
命のやりとりの中でも、八重はそういう豪胆さがあったのです。
雨あられと銃弾が降り注ぐ中、八重の恐怖は、トイレタイムでした。
みっともない姿のまま死んでしまってはみっともないと考えていたのです。
あるとき廊下を通ると、大勢の人が寝ているように見えたことも……目を凝らすと、それは戦死者でした。
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そんな彼女らにとって一番危険な任務は、不発弾処理です。落ちてきた不発弾を濡らした布で覆い、爆発を防ぐのです。
山川家の幼い娘・咲も、この任務を行い負傷しました。のちに名を山川捨松と変え、大山巌と結婚した彼女。
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彼女は夫婦喧嘩のとき、このとき出来た傷を見せて「あのとき、私を殺していればよかったでしょう!」と怒ることもあったとか。
砲弾を撃ち込んだ夫と、それを消し止めようとした妻。
彼女の義姉である兄・浩の妻である登勢は、この籠城戦の最中に爆死しています。
八重は、銃弾の構造を熟知していました。
容保の前で、銃弾を分解してその構造をペラペラと語ったこともあるそうです。
冷静で流暢な口調の八重に、その場にいた誰もが驚きを隠せませんでした。
度胸があり、強く、勇敢で、機転が利いていて、ユーモアのセンスもあり、かつ賢い。
そんな女戦士だったのです。
なれし御城に残す月かげ
そんな会津の女たちの戦も、終わりが近づいて来ます。
米沢藩支援の望みが絶たれ、食料が付き、死者が溢れてきます。
城の外には、錦旗が翻りました。
女たちにとって最後の仕事は、城内の白布を集めて、降伏の白旗を縫い合わせることでした。
父・権八は、激闘の最中に戦死。八重は、降伏の夜にこう城の塀に和歌を刻みこんだのです。
あすの夜は何国の誰かながむらむ なれし御城に残す月かげ
【訳】明日の夜になったら、どこからか来た誰かが、この慣れ親しんだ城の月影を見るのだろう
そう感慨を込めた一首です。
翌日、降伏。
60歳以上の高齢者と女性はお構いなし――にもかかわらず八重は「山本三郎だ」と名乗り、男であることを主張。謹慎地の猪苗代に送られます。
「お、女郎(めろう)だ!」
そう警備兵に言われることにうんざりしながらも、八重は夫・尚之助とともに猪苗代にたどり着きます。
死をも辞さない覚悟であったはずの八重。
しかし、男性ばかりの謹慎所では居場所もなく、ほどなくして解放されます。
八重は家族と共に、山本家と縁のあった米沢藩士・新一郎のもとに身を寄せたのでした。
夫・尚之助とは離ればなれになりました。彼は謹慎ののち、斗南藩に向かうこととなります。
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この地で尚之助は、訴訟沙汰に巻き込まれ、不遇の死を遂げています。
最期まで会津のために尽くした、誇り高い人物でした。
生きていた兄・覚馬
山本家は、苦難の最中、朗報をたまたま耳にしていました。
「山本様、覚馬様は生きてんだど!」
出入りする農民が、そう告げて来たのです。彼は、薩摩藩が宿とした場所に出入りして、その吉報を耳にしたのです。
覚馬の優れた見識は、新政府関係者を魅了したほど。
明治2年(1869年)、岩倉具視は『管見(謙遜しながらの素晴らしい見識)』に心を動かされ、面会しています。
こののち、覚馬は釈放されました。
この覚馬ですが『八重の桜』放映中に「兄つぁまを鴨川に投げ込め」というコールが沸き起こりました。
それというのも、不自由な彼を世話する小田時栄の存在ゆえです。
親子ほど歳が違うこの女性は、兄が会津藩の洋学所に出入りしていた関係で、覚馬の世話を焼くようになったようです。
そうこうするうちに、二人の間には娘まで産まれたのでした。
このことは、会津で娘を育て、留守を守っていた妻・うらにとっては、辛いもの。
明治4年(1871年)、覚馬が家族を京都へ呼び寄せたとき、うらは離婚を選んだのです。
「兄つぁまを鴨川に投げ込め」コールは、このうらに同情した人たちによる憤怒の叫びでした。
覚馬と小田時栄は結婚したものの、その心中はいかばかりか。
会津から姑・佐久、小姑(窪田家に嫁いだ八重の姉)、八重、うらの娘である峰がやって来たのです。
相当に気まずいものがあったと推測できます。
女が学ぶ新時代到来
明治維新を迎えて、西日本は複雑な状況に陥ります。
かつて「ええじゃないか」も巻き起こり、維新を待ち望んでいた西日本の人々。
京都では、会津藩や新選組を憎む一方で、長州藩士に同情を寄せていました。
京都観光していて、こう言われたことがあります。
「まあ、観光になるからグッズなんか置いとるけどな。うちのご先祖が酷い目に遭うたから、新選組なんかほんまは嫌いやで」
そういう記憶があるわけですね。
しかし、彼らも苦難を味わいます。
禁門の変から大火災【どんどん焼け】が発生。
維新が成立すれば、天子様は東京に連れ去られたようなものです。朝ドラ『あさが来た』でヒロインも激怒しておりましたが、維新後は経済も混乱し、大変な状態に陥りました。
そんな京都大参事(のちに府知事)となったのが、長州藩士の槇村正直でした。
彼は「山本先生!」と呼び、博識で知られる覚馬を頼りにしました。のちに「小野組転籍事件」で失脚する槇村が、覚馬を引き立てたのです。
覚馬は、失明し、歩行不能となっております。それでもその頭脳は、ブレーンとして用いたいものでした。
八重は会津時代の苦難を忘れないものの、前向きに歩く決意をしていたのでしょう。
着物を脱ぎ捨て、洋装に身を包みます。兄の巨体を支えることもありました。
すると「なんだか気が強くて、変わった女が山本先生の側に居る」と知られるようになります。
そんな八重の職場となったのが、日本二番目の公立女子校・女紅場でした。
覚馬は、日本が中国同様女子教育を軽んじていることは悪いと認識。
女子教育こそ新時代に必要だと感じておりました。
彼は、母や妹の才知を認めています。
母ほど賢い人いないと語るほど。女性でも、学べば賢いことを熟知していたのです。
八重にとって、これは嬉しいことだったはずです。
幼い頃の彼女も向学心を持っていました。
弾丸構造を、松平容保の前で流暢に説明するほどですからね。それなのに、女だからと言って勉学に触れることができなかった。
女が学べる新時代の到来を、八重は感じていました。
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