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【長州征討】
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長州藩主父子の命を要求すべきだった?
幕府は、長州藩主父子の命までは求めませんでした。
幕末でそんなことまで要求すればもう引き返せない。つまり大規模な衝突不可避の、最悪の要求となってしまうリスクが高かった。
それは【薩英戦争】で、薩摩がイギリスと戦わざるを得なかった理由を考えればご理解できるかもしれません。
当初、薩摩は「島津藩主父子の首が求められている」と誤解したため、これは絶対に後には引けないぞ!となって戦闘へと突入したのでした。
実際にイギリス側が要求していたのは「生麦事件の実行犯」の逮捕です。
藩主の首ではなかったんですね。
そうした勘違いから両者は薩英戦争に至り、その後はwin-winの関係を築いたので、まぁ、結果オーライかもしれません。
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たとえば会津藩主の松平容保にしても、長州藩主父子の命を要求しては武士として引き返せない――として寛大な処置を求めているほどです。
しかし、幕府や会津にとってはその甘さが、致命的な判断ミスとなりました。
第二次長州征討
第一次長州征討の後、第二次は西暦で1866年7月18日〜10月8日の間に行われました。
第一次に関しては、効果がなかったわけではありません。
長州藩は首の皮一枚を残し、復活の芽までは摘み取れなかったとはいえ、ある程度、成功はしています。
だからこそ、幕臣たちは悔しがります。
「あのとき、長州を、立ち上がれなくなるまで叩いておけば!」
そして第二次長州征討へと繋がるわけですが、第一次と第二次の間には、幕府の知らない様々な要素がありました。
特に大きかったのが薩摩の動きでしょう。
薩摩が長州と秘密裏に手を結んでいたんですね。
薩長同盟というと、薩摩と長州が倒幕を決意した――と誤解されがちですが、同盟の段階でそこまでの意思はありません(詳細は以下の記事へ)。
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ただし、薩摩が、長州と戦う気がないということは確か。
それでも幕府は、第二次長州征討に薩摩の参戦も求めていたのですから笑い話じゃ済まされません。
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何も知らない幕府軍は、軍艦から大島を砲撃し、芸州口・石州口・小倉口から攻め込みました。
第二次長州征討は「四境戦争」とも呼ばれ、高杉晋作はじめ多くの英雄が暴れ回った舞台とされています。
滅亡寸前まで追い込まれて彼らの士気は非常に高かった。
しかし、それ以前に薩摩藩は最初から本気ではありません。いわば八百長であり、どうしたって幕府軍が戦果を挙げられるハズもない。
そして第二次征討が始まってから約1ヶ月後、幕府軍にとっては致命的な不運に見舞われます。
生真面目な名君とされていた徳川家茂が薨去してしまったのです。
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なぜ幕府は敗れたか?
もはや幕府はグダグダ。
指揮していた将軍が亡くなっては、合戦を続けるわけにもいかず、朝廷の仲介を経て長州藩と休戦を結ぶのでした。
第二次長州征討は、かくして幕府の権威がボロボロに失墜するという結果に終わります。
家茂の将軍後継者となったのは徳川慶喜でした。
この慶喜と薩摩藩主・島津久光は性格的に一致せず、政権は大揉めで、グダグダに拍車がかかります。
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間に立った松平春嶽も心がポッキリ折れてしまい、当初は倒幕の意志がなかった久光も、ついには「幕府などもう要らん!」と決意を固めてしまうのでした。
そして長州藩を憎み続けた孝明天皇も、慶応2年(1867年)に崩御してしまいます。
一会桑政権が崩壊してしまうと、その後、慶喜は自己保身に走り、会津と桑名は滅びの道へ。
長州を叩き潰すことに失敗した幕府の権威は失墜し、もはや瓦解の道しかありませんでした。
★
歴史に”if”はありえない。
それでも江戸幕府が言うとしたならば「あのとき長州をしっかり潰していればなァ」となりましょう。
一方、自分たちが首の皮一枚で勝利したことを確信していたのが長州藩。
彼らは、後の会津戦争で勝利サイドに立つや、こんな要求をします。
「松平容保の首を差しだせ!!!」
完全に敵を潰さねば、かつての自分たちと同じく会津に復活され、リベンジされるかもしれない。
そんな長州藩の厳しい態度は、会津藩を救うべく奥羽越列藩同盟を結成した東北諸藩にとっては受け入れがたく、また、到底理解も出来ないものでした。
そもそも孝明天皇の意思で長州藩を潰すように命じられたのに、気がつけば会津藩が悪者扱いされるという、幕末ドタバタならではの展開。
このあたりの関係を頭に入れておくと、後の東北での展開もご理解しやすいかもしれません。
薩長サイドの歴史観だけで幕末を見ようとしても、なんだかよくわからないことになるのは、こうして様々なねじれが発生しているからなんですね。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
野口武彦『長州戦争 幕府瓦解への岐路 (中公新書)』(→amazon)
一坂太郎『明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す』(→amazon)
半藤一利『もう一つの「幕末史」』(→amazon)
『国史大辞典』