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【白石正一郎】
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忘れられた貢献者
しかし、さすがに大所帯で、それだけ金を使えば底をつくわけです。
慶応元年(1865年)頃には、小倉屋は破綻状態にまで陥りました。
それでも奇兵隊さえ華々しい活躍を果たせば――という風な場面ではありましたが、まず、白石の弟・廉作が、文久3年(1863年)【生野の変】で敗れて自刃してしまいます。享年36。
更には白石が希望を託した高杉は、慶応3年(1867年)、27才という若さで死去してしまうのでした。
このときの白石の落胆ぶりはいかばかりか。
金も尽き、将来を託したい高杉も亡くなり、白石は間もなくその活動に終わりを告げてしまいます。
明治維新の後も下関に留まっていた白石ですが、いつしかその存在は忘れられてゆきました。
明治8年(1875年)、安徳天皇を祀る阿弥陀寺が赤間神宮となると、白石はその宮司になっています。
そしてそれから5年後、明治13年(1880年)に死去。
享年69でした。
金を使い切った白石に……
西郷隆盛が認めたほどの人格者であり、奇兵隊創設の貢献者でもある白石正一郎。
彼は維新の過程で私財をなげうち、困窮に陥ります。
しかし白石の支援を受けて成立した新政府の閣僚たちは、誰もその恩に報いることはありませんでした。
新たな豪商との蜜月関係を築いたのです。
金を使い切った白石に、用はなかったのですね……。
高杉晋作と共に駆け回っていた井上馨は、金に汚い「貪官汚吏」として、新政府でも後ろ指を指されていました。
西郷隆盛は三井組(後の三井物産)と癒着した井上を皮肉り、こう呼びました。
「三井の番頭さん」
そう井上を蔑む西郷の脳裏には、白石のことが念頭にあったのではないでしょうか。
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維新後、政治家と商人の関係は、ズブズブとした私利私欲にまみれたものに成り下がったと揶揄されました。
むろん全員が全員そうではありませんが、新政府とは一定の距離を取った西郷にとっても、思うところはあったことでしょう。
不平士族の反乱(士族反乱)を見届け、西南戦争から程なくして亡くなった白石。
彼の声は静かに消されたままであります。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【TOP画像】白石正一郎邸「浜門」/photo by Heartoftheworld wikipediaより引用
【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『国史大辞典』
ほか