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【将軍になるまでの慶喜】
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12代・家慶と斉昭の因縁
家斉は、家慶が将軍となった後も大御所として君臨し、長い間政治を担ってきました。
そんな偉大なる父の子である家慶は、プライドが高く、打たれ弱い人物でした。多くの子女がいたものの大半が夭折してしまい、残された家定も病弱で子がいません。
そのためか、晩年の家慶は幼い子どもを可愛がる傾向が見られました。
徳川御三家の中でも身体壮健、頭脳明晰である慶喜に目をかけるのは当然のことといえます。出来の良い孫扱いですね。
ただし、そこには大きな問題もあります。父・斉昭との因縁です。
文政12年(1829年)、水戸藩主8代斉脩(なりのぶ)が子を残さず没すると、後継者争いが勃発。
財政難の藩を立て直すため、家斉の子を養子に迎えて継がせたらどうかという案が上がりました。
これに反発したのが水戸藩の会沢正志斎や藤田東湖たち。
「哀公(斉脩)には弟君(斉昭)がおられるではないか!」
と、抗争を経て斉昭が9代藩主となるわけで、激しやすく根にもつ性格の斉昭は、自らの藩主就任に反対した相手を徹底的に叩きのめします。
斉昭が藩主になった際の禍根が、幕末最大の惨事とされる【天狗党の乱】の根幹にある。
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そもそも御三家でありながら、尾張や紀伊より扱いが軽いように思える水戸徳川家。
明朝が滅亡すると、当時世子であった光圀が、亡命した明人の朱舜水らを庇護し、中華の後継者を自負するようになります。
複雑な人生ゆえ、どこか屈折した水戸光圀が生み出したのが、水戸学でした。
この水戸学は、斉昭の時代となると「後期」とつけられて「後期水戸学」と称されます。
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前述の通り、斉昭は藩主就任を妨害されたことがあります。
家斉の養子に奪われかけた過去に恨みでもあったのか。それともライバル心に火がついたのか。
斉昭は、欧米列強の外患に悩まされる幕府に喝を入れるべく、大立ち回りを演じました。
『青天を衝け』の初回でも描かれた追鳥狩という軍事演習。
外国船を断固打ち払うべしと唱える強硬な理論。
2020年代風にわかりやすくキャッチコピーをつけるとすれば、「メイク・ジャパン・グレート・アゲイン(強く美しい日本を取り戻す)」といったところでしょう。
国威発揚と禍々しいまでの雄々しさを振りかざす斉昭は、強いリーダー像とみなされた一面もあります。
七郎麿の幼少期は、いわば斉昭フルスロットル時代でした。
しかし、御三家がノコノコと幕政に口出しする状況に、家慶は憎悪すら抱いていました。
エリート気質で繊細、改革に挫折しどこか無気力であった家慶にとって、斉昭は目障りそのもの。
そんな家慶のもとへ、水戸藩家老・結城寅寿らから相談が持ちかけられます。
領内の寺を迫害し、仏像まで破壊して困惑している――。
明治政府の愚策として悪名高い【廃仏毀釈】は、実は斉昭が先行して行なっていたものだったのです。理由はイデオロギー先行で、無茶苦茶なものでした。
日本では伝統的に「儒・仏・神」が並行して信仰されています。
朱舜水らを受け入れて以来、儒教の本場を自負する水戸学の世界観では、儒教と神道をまとめて崇敬するようになります。
そして、こうなります。
「仏教、お前らは天竺(インド)由来のくせに、厚かましいんだ!」
水戸学のもつ過激なやりすぎ感と破壊衝動が、この頃には既に発現していて、ただでさえ斉昭の厚かましさに苛立っていた家慶は、いよいよ決意を固めます。
天保15年(1844年)――斉昭は幕府より、謹慎を命じられました。
水戸藩の藩政が勝手気まま過ぎる。
あまりに驕慢である。
幕政への口出しがやりすぎだ。
御三家は模範となるべきなのに、そういう気遣いがない。
この出来事を水戸藩では【甲辰の国難】と呼び恥辱として記憶し、裏で糸を引いていたとされる結城寅寿は、後に一子・種徳ともども、理不尽な死を迎えています。
そうした家慶と斉昭の因縁をふまえると、慶喜が可愛がられることは水戸藩に明るい予感すらもたらすものとも言えた。
幕末という時代は、危難において一致団結するどころか、分裂する日本人の姿が見えてきます。
幕府においては、斉昭派か、アンチ斉昭派かという、水戸藩内部抗争を拡大した図式が勃発。
それは家斉という巨星が堕ちた後、斉昭と家慶にまで遡ることのできる関係でした。
少年時代から狡猾であった慶喜
鍾愛の我が子が、一橋家の世継ぎとなる――斉昭はどれほど浮かれたことでしょう。
家慶から見込まれ、斉昭は褒めちぎる。しかし、この貴公子には別の側面があると、周囲の者が悟った逸話が残されています。
一橋家に入った慶喜が、打毬(日本式ポロ)で遊んでいたときのことです。
杖を使ってボールを集めるはずなのに、手で拾っている。周囲は困惑しながら見て見ぬふり。それを見咎めた相手が、ザルでまとめてボールを掬い取り、こう告げたとか。
「今後もそうやってコソコソと手でボールを拾うなら、こちらとしてはザルですくいます」
晩年に愛猫ハンの写真を撮影したことから、慶喜に親近感を持つ愛猫家もおられるようです。
しかし、幼少期の彼は猫をいじめて遊ぶ不穏な人物でした。少年時代は猫を木に縛り付け、手裏剣をぶつけて遊んでいたこともあるとか。
父の二面性が似たのか。スパルタ教育で誤魔化すことを学んだのか。
賢くて外面は良いため、すっかり騙される者も少なくない。
往年の少年漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第1部に登場するディオ・ブランドー少年を彷彿とさせる、二面性のある人物として育ってゆきます。
しかも当時の斉昭はますます意気盛んでした。
水野忠邦の失脚後は、政治に消極的な家慶ではなく、幕閣を治める阿部正弘に取り入ることこそが重要だと理解。
愛想よく阿部に取り入る斉昭は「提灯持ちかよ」と言われるほどでしたが、斉昭は斉昭で、阿部のことを「チョウチンナマズだな」と呼んでいたとか。
阿部は不思議な人物です。全方位懐柔型ともいえる。
斉昭に甘いようでいて、家慶が「いっそ将軍を慶喜に継がせよう」と言い出したら実は止めています。
斉昭をうまくあしらっていたのです。
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