徳川慶喜が将軍になるまで

徳川慶喜/wikipediaより引用

幕末・維新

だから徳川慶喜を将軍にしたらヤバい! 父の暴走と共に過ごした幼少青年期

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将軍継嗣問題

嘉永6年(1853年)、不穏な時代を一変させる衝撃が、日本を襲います。

ペリー率いる艦隊が浦賀沖に姿を見せたのです。

この【黒船来航】の真っ只中、将軍・家慶は病没。その後に続く家定は病弱であり、世継ぎがいませんでした。

しかも【安政の大地震】が起き、斉昭のブレーキ役であった側近・藤田東湖が死亡すると、それまで斉昭をなだめてきた阿部正弘も急死。

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未曾有の国難の中、ブレーキの壊れたダンプカーのような斉昭が主導して、しょうもない政治闘争が発生します。

14代将軍の座をめぐる【将軍継嗣問題】です。

これは幕政と将軍の在り方を変えてしまうようなトラブルと言えました。

近世以降、君主制は為政者の器量ではなく、それを支えるシステムの構築が重視されました。

例えばイギリスとフランスを比較してみるとわかりやすいかもしれません。

イギリスの場合、君主として美徳と力量を備える人物は多くない。とりわけハノーヴァー朝は際立った暗君揃いでした。

フランスの場合、【フランス革命】の最中にルイ16世が斬首されています。

ルイ16世は性格が温厚で慈悲深く、理系知識もある優れた資質の持ち主にもかかわらず、革命政府は

「ルイ・カペー本人に罪はないが、国王という存在は民主主義の敵である」

という理屈で死刑としました。

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そんなイギリスとフランスは【ナポレオン戦争】で激突。

イギリスを率いるのは、神経を患い廃人になったジョージ3世と、アホなパリピ王太子として悪名高い後のジョージ4世

フランスは、軍神の如き、皇帝ナポレオン。

結果はイギリスの勝利でした。

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こうした経緯を経て、ヨーロッパ諸国は悟ります。

これからは近代にふさわしい国のシステムを確立すべし――。

王座に座るのがパリピであろうと人形であろうと、国を動かすことが重要だと考えられたのです。

実はヨーロッパだけの話でもなく、江戸時代後期ともなると、将軍はお飾りであり、権威でした。

主にやるべきことは先祖の供養と崇拝、儀礼。そんな時代なのに、一橋派はこう主張します。

「この国難においては、強いリーダーシップが必要なのであります! どうか一橋慶喜を次期将軍に、みなさまの応援が、必要です!」

これは二重の意味でおかしい主張でした。

まず血統的にいえば、紀州慶福(後の家茂)の方が断然ふさわしい。

かつて水戸藩は、血統を掲げて斉昭こそ藩主になるべきだと主張していました。そんな過去の言動を一変して、年長賢明を条件に割り込ませようとしたのです。

近代へ向かう視点から見ても時代錯誤でした。

幕政は将軍一人ではなく、幕閣で動かしてゆくもの。前述の通り、暗君を掲げていようがイギリスはフランスに勝利しています。

将軍継嗣問題とはつまり、本来問題にすらならないようなことを、徳川斉昭とその周辺が無理に担ぎ出して大騒ぎしたことから発生したと言えます。

 


一橋派は強引すぎた

将軍継嗣問題で対立した一橋派と南紀派という表現も、厳密に言えば正確ではありません。

一橋派の無茶苦茶な言動に反対した勢力が南紀派であり、主体的に誰かが扇動したものではない。

一方の一橋派は、無茶な理屈を掲げながらも、人心掌握には長けた逸材が揃っていました。

押しが強いパワフル斉昭。

聡明で先見性に長け、人徳もあった松平春嶽

この二人が説得することで、なびいていく勢力も増えてゆくのです。

が、一橋派はやりすぎました。

堀田正睦らが苦労して結んだ【日米修好通商条約】を「弱腰だ!」と攻撃材料にしながら、朝廷にまで何やら工作を行う。

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見た目にもわかりやすい暴挙の一つが【押しかけ登城】でしょう。

大河ドラマでもあまりじっくり描かれませんが、これがなかなかマヌケな顛末でして。

井伊らを糾弾するため城までやってきた斉昭一派。昼時になると、当番目付が月番老中・内藤信親にこう伺いを立てます。

「あの、湯漬けくらい出したほうがよいですかね?」

「呼んでもないのに登城したんだから、弁当くらい持ってきてるだろ。昼飯なんていらん」

結果、空腹のせいもあり、斉昭らはすっかりトーンダウン。

斉昭がギャンギャン怒鳴り、井伊直弼が冷たく返すという屈辱的なやり取りとなりました。

支持者から「もう一橋派、終わっただろ……」と嘆かれる始末となったのです。

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こうした一橋派の無茶ぶりに怒りを抱いていたのは、一橋派からすれば暗愚な木偶の坊でしかない13代将軍・徳川家定でした。

阿部正弘の生前は幕政から遠ざけられていた家定は、実のところ井伊直弼と共同して政治を進めていくようになっていました。

その家定の意を背景にして、井伊直弼は大鉈を振います。

安政5年(1858年)――6月25日、大名が江戸城に登城させられ、紀州慶福が次期将軍であると発表。

7月5日、同時に押しかけ登城の罪を問われ、徳川斉昭は謹慎、松平春嶽と徳川慶勝は隠居謹慎となります。さらには斉昭の子である慶喜も登城を禁じられました。

そしてその翌6日、家定は急死。慶福改め徳川家茂が第14代将軍となります。

慶喜はこの処分にどこまで落胆していたのか。

「将軍になっても苦労ばかりでしょう。将軍に成って失敗するよりも、はなから将軍にならない方がずっとマシですよ」

父・斉昭には、そんな書状を送っています。

火中に栗を拾うことになることは目に見えていましたし、明治以降の楽隠居ぶりから察するに、本音と思える言葉。

慶喜は「父上のせいで最悪の謹慎に」と言わんばかりに、あてつけじみた謹慎生活を送るのです。

風呂に入らない。

月代を剃らない。

麻袴着用。

昼間でも雨戸を締め切って読書すらできない。

縁側にも出ない。

そして父に説教。

強引な攘夷だのなんだの幕政に口出しして何のつもりか、二度とするな!とぶちまけました。

さしもの斉昭も「もうしない」としょんぼりしてしまいました。

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