幕末の大奥

橋本(楊洲)周延画大奥/Wikipediaより引用

幕末・維新

幕末の大奥は女の火花バッチバチだった? 篤姫が嫁いだ時の女性21名+猫

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その他

◆第11代将軍・徳川家斉正室:広大院(寧姫、篤姫、茂姫)

安永2年(1773年)~天保15年(1844年)

竹姫(島津継豊正室)の遺言を受け、島津重豪が縁談を調えた島津家出身の姫君。

天璋院篤姫は、彼女にあやかり篤姫と名乗った。

実に48年間、半世紀近く大奥に君臨した伝説的な女性。

天璋院篤姫と家定の婚礼が成立したのも、彼女の前例あってのこととなる。

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◆御年寄:姉小路(いよ、勝光院)

寛政7年(1795年)?~明治13年(1880年)

生年、出自等は諸説あり、中納言・橋本実誠の娘とされている。

水戸藩老女・花の井の妹で、家斉から家慶の時代に大奥のトップとして君臨した。

あまりに絶大な権力を持ったことから、家慶のお手つきでは?と疑われたほど。

水野忠邦阿部正弘とも良好な関係を持っている。

天保15年(1844年)天ぷら調理中の部屋から出火、大奥で大火災を引き起こす。

同僚・梅渓のしわざとされ、姉小路は謹慎処分にとどまるも、明治以降に、やっぱり姉小路が真犯人だった……と判明してしまう。そして、その罪を同僚になすりつけたことも。

家定二人目の正室・秀子の縁組みを調えるも一年も経たないうちに秀子は夭折。

その負い目もあってか、三人目の正室選びに奔走した。

この姉小路と、将軍家と縁組みをしたい島津斉彬との利害が一致し、篤姫の輿入れが実現している。

家慶の死後は、歌橋に実権を譲って、引退となる。

その後も、和宮の降嫁の際は、和宮生母・観行院の説得のため京都に赴いた。

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◆御歳寄:瀧山

文化2年(1805年)~明治9年(1876年)

家慶・家定・家茂に仕えた大ベテラン。

幕臣大岡家の出身で、ませ子のおばだった。

家定期の歌橋にかわり、家茂期から台頭するも、実成院の飲酒癖を強くたしなめたため、煙たがられている。

慶応4年(1868年)の江戸開城に伴う大奥終焉の際にも指揮を執ったとされるが、慶応3年(1867年)10月には辞職。

ドラマ等では若く描かれることがあり、享年71とされている。

大奥を隠居した頃は、還暦前後であった計算になる。

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◆御歳寄:万里小路局

文化10年(1813年)~明治11年(1878年)

大納言池尻暉房の娘とされるも諸説あり。

家斉・家慶・家定・家茂に仕えた。

大奥女中の頂点にあり、意志の強い女性なれど、政治的にあまり目立った動きはしていない。

 

◆第15代将軍・慶喜正室:一条美賀子

天保6年(1835年)~明治27年(1894年)

第15代将軍・慶喜の正室だが、一橋邸にとどまり、大奥入りは果たしていない。

慶喜が寛永寺に謹慎すると助命嘆願し、夜具を届ける等の苦労もしている。

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◆徳川家達夫人:徳川泰子

慶応3年(1867)~昭和19年(1944年)

明治15年(1882年)に家達と結婚するが、実はそれ以前から徳川家の妻として、篤姫の教育を受けていたとされる。

 

◆篤姫の好きな味

遠い薩摩から、江戸に嫁いだ篤姫。

皆さんも、かつて故郷を出た際に「ふるさとの味がなつかしいなあ」なんて思ったりしませんでしたか?

篤姫も、薩摩の味が恋しくてならなかったようです。

そんな彼女がお取り寄せをしたのが、赤味噌と高菜の漬け物でした。

なんでも薩摩の赤味噌以外のは口を付けなかったようで、幾島が国元からわざわざ取り寄せていたのだそうです。高菜を送って貰った手紙もあります。

篤姫の好物には、こんなものがありました。

・薩摩の赤味噌

・高菜の漬け物

・長茄子

・蛤、アワビといった貝類(アサリ、シジミは食べなかったそうです)

・酒

・貝煮(アワビの殻を使った茶碗蒸しのような料理)

・樽柿(酒で渋抜きをした柿、大奥では下品だとして好まれなかったのですが、篤姫は気にしませんでした)

お酒はわりと飲んでいたようで、就寝前に嗜んだようです。女中と共に酔っ払うこともあったとか。

お姫様、御台所というイメージよりも庶民的というか、なかなか親しみを持てそうです。

篤姫は、さすが斉彬の養女だけあって進歩的でもあり、アメリカから贈られたミシンを上手に使いこなせたそうです。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
桐野作人『別冊歴史読本天璋院篤姫の生涯』(→amazon
『さつま人国誌 幕末・明治編』(→amazon
『国史大辞典』

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