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【幕末の大奥】
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第14代将軍家茂・関係者
立場的には嫁と姑のように対立した2人と思われがちだが、徳川家存続を目指すという点においてむしろ一致していた。
江戸開城の際には、篤姫と和宮、それぞれが必死で存続のために協力する。
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◆生母・実成院(じつじょういん)
文政4年(1821年)~明治37年(1904年)
御三家紀州藩藩主・徳川斉順の側室で、第14代将軍・徳川家茂の生母である。
実名は、みさ(満佐)、操子(美喜、於美喜の方とも)。
なにかと派手好きで明るい性格で、朝から酒を飲んで大騒ぎする、パリピ気質の女性だった。
大奥から去ったあとは嫁の和宮と行動をともにするも、和宮の死後は篤姫の元へ身を寄せている。
◆御台所:和宮
幕末のドタバタでぎくしゃくしてしまった幕府と朝廷の橋渡しとなるため降嫁した、孝明天皇の妹。
当初は泣いて嫌がっていたものの、夫となる徳川慶福(徳川家茂)は和宮にも心優しい人物で、夫婦仲は悪くなかったと伝わる。
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◆和宮生母:観行院(橋本経子)
文政9年(1826年)~慶応元年(1865年)
14才で仁孝天皇の後宮に入り、胤宮(夭折)、和宮親子内親王を生む。
和宮を出産した21才の年、仁孝天皇が崩御したため、落飾。
文久元年(1861年)に和宮について、江戸に下向し、和宮のよき支えとなった。
生母を亡くした和宮の失望は深いものとなる。
◆実成院付女中:藤野
もとの名はやわ。
彼女が麻疹で実家に下がった際、実成院が乱痴気騒ぎを起こし、収拾が付かなくなったと伝わります。
ストッパー役だったのでしょう。というか実成院て……。
明治5年(1872年)、46年の奉公を追え、高齢により隠退しました。
◆家茂付女中:波江
元は紀州藩の老女。
家茂の養育係として、その生育にプラスの影響を与えた。
家茂が将軍になったあとは、大奥入り。
和宮の味方となり、よく尽くす。
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