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【海江田信義(有村俊斎)】
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海江田の弟は江戸に留まってしまった
それにしても、西郷や大久保だけでなく、海江田や有村兄弟も属した精忠組って何なんでしょう?
彼らは血気盛んな薩摩の若手ばかりです。ゆえに時に危険な志向に走りがち。
当時の彼らは
らを殺害して、天皇を擁する計画を練っていました。
しかし、大胆かつ杜撰すぎるこの計画は、事前に薩摩上層部に知られてしまいます。
このころ藩を掌握していたのは島津久光です。新藩主・忠義の父「国父」として、藩士たちからの支持も得ておりました。
久光は精忠組を見事に取り込みます。
彼らの志を否定するのではなく、むしろ認め、いつかは藩をあげて行動するからとなだめ、過激な行動を制限するよう、大久保に言い聞かせたのです。
こうして薩摩藩の外にいた精忠組の藩士たちも何事もなく帰国しますが、海江田の弟「有村雄助と有村次左衛門」らは江戸に留まります。
運命の分かれ目でした。
井伊直弼の首を持って帰ろうとしたところ
それは安政7年(1860年)のことでした。
有村次左衛門は桜田門外にて、大老・井伊直弼を殺害し、その首を切り落としたのです。
いわゆる「桜田門外の変」ですね。
同事件に薩摩のイメージは薄いですが、以下の記事にありますように、
桜田門外の変と意外な事実~井伊の首を取ったのは薩摩藩士だった
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実際に首をとったのは海江田の実弟だったのです。
その結果、次左衛門は、首を抱えて現場を去ろうとしたところを斬りつけられて、絶命(享年22)。
弟の雄助は、井伊直弼殺害に呼応して京都・大阪で兵を起こすべく、西へ向かうその途上、薩摩藩が放った追っ手に捕らえられ、鹿児島で切腹させられました(享年26)。
兄として、海江田の無念はいかばかりでしょう。
大久保らも、せめて雄助は……と助命嘆願しましたが、激怒した島津久光の怒りは尋常ならざるもので、聞く耳を持ちません。
それでも久光は、海江田本人については厳しい処分をするどころか自身の護衛にしているのですから、決して無情な人物ではなかったこともわかりましょう。
井伊直弼の殺害事件に関わった以上、誰が藩主だったとしも、有村兄弟の死は避けられなかったのではないでしょうか。
西郷の勝手な行動をウッカリ久光に漏らしてしまう
さて、兄である海江田は、文久元年(1861年)、日下部伊三治の次女・まつと結婚。
婿養子として、海江田武次信義と改名します。
本来は弟の次左衛門が日下部家を継ぐ予定でしたが、桜田門外の変で亡くなり、兄にお鉢が回ってきたのです。
しかしこの直後、「海江田、アイツ余計なことしたよね……」と言われる事件が起こります。
文久2年(1862年)。
島津久光の上洛。護衛として同行していた海江田は、つい言ってしまったのです。
「西郷は今どこにいるのか。下関か?」
「西郷は大坂においもす」
「は?」
「…………」
西郷は、流罪から復帰したとはいえ、安政の大獄から逃れるために、表向きは「死亡」した人間です。
その西郷を隠しながら使っている久光としては、勝手な行動だけは許せません。
にも関わらず西郷は、待機命令を破って移動しているわけです。
久光、再び激怒!
海江田の余計な一言から、西郷二度目となる流罪のきっかけを作ってしまいました。
むろん、悪いのは西郷ですが、海江田とてバツが悪かったことでしょう。
そしてその直後、【寺田屋事件(寺田屋騒動)】が起きるのですが、ここでも海江田は満足な結果を得られません。
有馬新七ら、寺田屋に立て籠もった藩士の説得を命じられ、結局、失敗。
大山格之助(大山綱良)ら腕利きの剣士が力づくで征圧することになったのです。
さらに同年の「生麦事件」では、負傷して落馬したイギリス人チャールス・リチャードソンを海江田が殺してしまいます。
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