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【海江田信義(有村俊斎)】
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たしかに海江田にも言い分はあります
マトメますと……。
幕末ファンから、ときに「無能」と称されてしまいますが、それもむべなるかなという結果が出てしまっているのです。
むろん、海江田にも言い分はあるでしょう。
1.そもそも西郷が軽挙妄動
2.興奮しきった若手薩摩藩士を誰が言葉で説得できる?
3.イギリス人そのものも悪いし、事前にイギリス人を止められなかった藩士も悪い
そんな風に見ることもできるワケで、海江田を責めるのもどうかなぁというところです。
ただし、桜田門外の変に関わった有村兄弟は、さすがにマズイ。ヘタをすれば薩摩藩の命運が途絶えていた可能性だってあります。
そして海江田4つめのザンネンな功績。
それは薩長同盟にも関わるものでした。
大村との対立で暗殺疑惑→新政府で出世できず
薩摩藩と長州藩は、京都における争い(禁門の変)等で、激しい対立関係にありました。
しかし、薩長同盟前夜ともなると、徐々に雪解けの気配も見えてきます。
よく知られた坂本龍馬や中岡慎太郎の他に、薩摩藩でも村田新八、桂久武、小松帯刀らも長州藩との和解に尽力するわけです。
が、当然ながら例外もおり、その代表格が海江田なのです。
戊辰戦争において海江田は、東海道先鋒総督参謀として従軍していました。
ところが、長州藩の大村益次郎のやり方にブチギレて、大変なことになります。
「お前は戦をなんも知らんじゃね」
「こん長州もんが、斬い捨ててやう!」
海江田は長州藩から危険人物としてマークされたほど。
大村が暗殺されると、海江田が犯人じゃないの?とすら噂されました。
海江田は「大村を殺しておらん」と否定するのですが、長州関係者は納得しません。
明治維新以降、海江田があまり出世できなかったのは、長州藩から危険視されたせいだとも言われています。
武功ではなくて、こんな歴史ばかりが残ってしまうというのも残念ですが……。
西郷と距離感あったゆえの長生きか
前述の通り、明治維新後の海江田は長州藩から嫌われたこともあり、大きくは出世できませんでした。
鹿児島に戻ってからも、西郷と親しくなるというより、島津久光との距離が近くなります。
そのせいでしょうか。
明治10年(1877年)【西南戦争】には不参加。
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むろん彼らを憎んでいたとかそんな安直な理由ではなく、翌明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると聞き、その死を悼んでおります。
彼自身は明治39年(1906年)に死去。
享年75でした。
★
『西郷どん』に出てくる郷中仲間の中で海江田は最も長生きしました。
西郷の仲間といっても全員が優秀であったわけでもなく、海江田はそれなりの能力だったのかもしれません。
島津久光と距離が近く、西郷の関連作品ではマイナス評価されがちですので、そのへんも考慮しておく必要がありそうです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『国史大辞典』
ほか