日本の皇室は、世界史上唯一、男系が保たれており、なおかつ世界一長く続いている王朝です。
俗な表現にすれば「世界一のセレブ」と言っても過言ではないわけですが、ときに強烈な個性の方がお生まれになります。
この手の話でよく引き合いに出されるのは【承久の乱】を起こした後鳥羽上皇が筆頭でしょうか。
江戸時代にも武家相手に精神的なケンカを売った天皇がいました。

後光明天皇/wikipediaより引用
寛永十年(1633年)3月12日に誕生した後光明天皇です。
10歳で元服し、即位後21歳で亡くなる後光明天皇
この方は、紫衣事件やら徳川秀忠の娘・和子が入内したことで有名な後水尾天皇の息子です。
即位順だと後水尾天皇(父)→明正天皇(娘・姉)→後光明天皇(息子・弟)の順になります。
諸々の事情でお姉さんの明正天皇が名ばかりの即位で長生きしたのに対し、後光明天皇は満10歳で元服・即位、それから約10年後に享年22で亡くなるという、何とも対称的な生涯を送りました。
残された逸話はどれも激しいご気性をうかがわせるものばかりです。
一番強烈なのは、京都所司代・板倉重宗とのエピソードでしょう。

板倉重宗/wikipediaより引用
後光明天皇はその性格に合ったためか、自ら武芸を学んでいました。
これに対し、重宗は「幕府にバレるとまた揉め事になりますから、お止めください。そうなったら私は腹を切らねばなりません」と脅迫を含みつつ諫言します。
後光明天皇は意に介さないどころか「武士の切腹を見たことないから、紫宸殿(京都御所の儀式場)の南でぜひやってみろ」(意訳)と言ったのです。
まさか天皇から「やれるもんならやってみろよwww」的なことを言われるとは思っていなかった重宗は閉口せざるを得ず、引き下がったといわれています。
和歌よりも漢詩が好き「鳳啼集」を作成
話はきっちり幕府にも伝わったらしく、その剛毅さを懸念したのか、以後、後光明天皇の武芸について口を出すことはなかったとか。
紫衣事件やらなんやらで朝廷と幕府の間は水面下で政争状態でしたから、これ以上揉めると厄介だと思ったんでしょうね。
また、武芸をお好みということで、当然のように文学というか文化的なものがお嫌いという特徴もありました。
「皇室と公家の皆さんは勉強に励んでね!」(超訳)とある禁中並公家諸法度もまるっと無視。
特に”たおやめぶり”や本朝文化(平安時代に生まれた日本独自の文化)がターゲットになり、その代表である和歌や源氏物語について「朝廷の権威が落ちたのは、こんなナヨナヨした文学のせいだ! 廃止!」(超訳)とまで言っています。
小気味いいほどの憎みようです。
とはいえ文学を理解できないというわけではなく、お父上の後水尾上皇から「即興で和歌を詠んでみよ」と言われたときにはその場で十首詠んだこともあります。
一方、漢詩はお好きで『鳳啼集(ほうていしゅう)』という御集(皇族の歌集)があるほどです。
また、儒学もお好みに合ったらしく、奨励していたとか。
同じく儒学好きの徳川綱吉とだったらウマが合ったかもしれませんね。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
「天皇なのに和歌より漢詩なの?(´・ω・`)」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、皇室では珍しい話でもなかったりします。
どちらかというと和歌派のほうが多い気がしますが、漢詩派の方もいます。
近代で言うと、明治天皇・昭和天皇が和歌派で大正天皇が漢詩派ですね。
一休さんのトンチ以上の痛快エピソード
頭の回転の速さを示す逸話もあります。
あるとき、後水尾天皇が病気になったという知らせが届きました。
お父上のことですから当然後光明天皇は心配してお見舞いに行こうとします。
が、幕府から「天皇がお出かけされるときは一言事前に言っていただくことになってますよね?^^」(意訳)と横槍を入れてきました。
そこで後光明天皇は一時お見舞いを取りやめます。
もちろん、引っ込んだわけではありません。
なんと御所から後水尾天皇の住まい(院御所)まで渡り廊下を作らせて「繋がってる建物の間を移動するのは外出じゃないからいいよね^^♪」(意訳)と幕府に言い返したのです。

後水尾天皇/wikipediaより引用
まさに常識を飛び越えた発想で、やっぱり幕府は何も言えなかったとか。
たぶん親子揃って大爆笑してたんじゃないでしょうか。水入らずでいいですね。
父の後水尾天皇よりも早く痘瘡で…
ちなみに父の後水尾天皇は、後光明天皇よりもずっと長生きしています。
後光明天皇は1654年に痘瘡で亡くなったので仕方がありません。享年22。
総合して見てみると、後光明天皇は良くも悪くもお父上に似ているということになるでしょうか。
後水尾天皇はお父上(後光明天皇からするとおじいさま)である後陽成天皇と仲が悪かったそうなので、そこは似なくてよかったですけども。
今は写真があるので、どの方とどの方が似ているかすぐわかりますけれど、そういうものがない時代でも「ああ、親子だわ」と思えるところがあるというわかりやすい例ですね。
かえって親近感がわいていいのかも。
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【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
高森明勅『歴代天皇事典 (PHP文庫)』(→amazon)
山本博文『ビジュアル百科 写真と図解でわかる! 天皇〈125代〉の歴史』(→amazon)
後光明天皇/wikipedia






