徳川家重/Wikipediaより引用

江戸時代

徳川家重の「小便公方」はあんまりだ……実は引き際鮮やかだった9代将軍

正徳元年(1712年)12月21日、九代将軍・徳川家重が誕生しました。

何かと言われようの厳しい家重。
一つ前の代かつ父親が”中興の祖”こと徳川吉宗ですから、比較されてしまうのは仕方のないこととはいえ「小便公方」おいう屈辱的なアダ名を付けられてしまいます。

人生のほとんどを江戸城という限られた空間で、ごくわずかな特定の人としか直に接しない生活の上に、そんな目で見続けられていたとしたら、どれだけキツかったことか。
その生涯を振り返ってみましょう。

 

幼少の頃から偏見の目で見られていた!?

徳川家重が生まれたのは、吉宗がまだ紀州藩主時代、江戸藩邸でのことでした。

父親の将軍就任に従って江戸城に入ったのですが、この頃から既に偏見の目で見られていたらしき形容をされています。

というのも、生まれつき何かの病気で言語が不明瞭になっていたため、「これでは跡継ぎにふさわしくない」と言われまくっていたのです。
実際、もう少しで幕閣に廃嫡されかかったこともありました。

それでも吉宗は、家重を跡継ぎに選びました。

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一説には、家重自身ではなくその息子、つまり吉宗から見れば孫である徳川家治を将来将軍にするためとも言われています。
あくまで一説ですが。

 

上野寛永寺までの道中に23ヶ所のトイレ→小便公方

家重が将軍の座に就いても、吉宗は存命中ずっと大御所として権力を持っておりました。

そのため、家重が親政をしたのは十年もありません。

しかもストレスのせいか体質のせいか、頻尿に悩まされていた家重は市井の人々からもバカにされ、「小便公方」とまで言われていました。
徳川家の菩提寺・上野寛永寺までの道中に23ヶ所もトイレを作らせたからだといわれているのですが、にしてもあんまりなアダ名ですよね。

現代でもこの症状に悩まされている人は多いので、何となくわかる方もいらっしゃるかと思いますが、頻尿というのは臓器の疾患だけでなくストレスで悪化することがままあります。

つまり、家重の頻尿は幕閣その他からのプレッシャーで悪化していた可能性が非常に高いということです。

どう考えても23ヶ所というのは多すぎますから、実際に使うかどうかというよりも「そのくらいの数がないとすぐ行けない」という不安の大きさの表れなのではないでしょうか。

当時の知識ではストレスと病気の関連性なんてわかりませんから、仕方のないことではありますが……にしても酷いものです。

 

一介の旗本だった意次のスペックを見抜いた?

しかし、家重は自分の限界をきちんと理解していたらしき行動もしています。

根拠は次の二点です。

一つは、唯一彼の言葉を聞き取ることができた大岡忠光という家臣が亡くなった後、将軍職を家治に譲っていることです。

自分の意思を汲み取ってくれる人がいないということは、どんなに真面目にやっても誰もわかってくれないということになりますよね。

精神的にキツいからというのももちろんあるでしょうが、それが世のためにならないことがわかっていたからこそ、潔く身を引いたのではないでしょうか。

もう一つは、田沼意次を大名に取り立てていることです。

意次は元々一介の旗本(将軍に直接お目見えできる最低の身分)に過ぎず、本来なら大名にも老中にもなるはずのない家柄でした。

幼少期に家重の小姓をやっていたことがあるため、お互いの性根や能力はよくわかっていたでしょうから、公私共に信頼できる人物として登用したのでしょう。

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この二つを総合して考えると、口に上手く出せないだけで、本当は優れた頭脳の持ち主であった可能性は否定できません。

現代だって吃音等がなくても、言葉遣いが悪かったり言葉が足りなさ過ぎて、うまく意思を伝えられない人というのはいるのですから、江戸時代の人をその一点だけで咎めるのはいかがなものかな、という気がするのです。

家重本人の書付か何かが見つかれば、また変わった評価をされるようになるのかもしれません。
その暁には、ぜひドラマや映画で取り上げていただき、一般的なイメージが良くなることを期待したいと思います。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
徳川家重/Wikipedia

 



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