青沼

漫画『大奥 8-9巻』/amazonより引用

江戸時代

ドラマ大奥・青沼のモデルは?鎖国下の日本で青い目の侍はあり得る?

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発展が頭打ちになっていく東洋

人類史は、右肩上がりと停滞を繰り返しています。

人口増大と食糧生産はなかなか一致せず、気候変動により食糧生産が滞ってしまうことはしばしば起きました。

こうした要素が絡み合い、どれだけ工夫しようと、どうにもならない局面は訪れます。

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大奥』の最終回では、黒木という人物がサツマイモを食べていました。

このサツマイモ、実は歴史の転換点として重要な存在です。

徳川幕府は、米を本位とした政権を運営していましたが、吉宗時代となると新田開発にも限界を迎え、稲作のできない土地での農業が重視されます。

その救世主として栽培の始まったサツマイモとジャガイモは画期的な農産物でした。

アメリカ大陸を原産とするこの植物は、江戸時代初頭には明経由で伝わっていたことが、徐光啓の記した『農政全書』に記されています。

まず最初に琉球へ伝わり、薩摩で栽培がスタート。そのため「サツマイモ」と称されました。

薩摩に対しては、その蔑称として「イモ」という言葉もあります。

サツマイモは確かに有用ながら、米が第一であるという認識があったためでしょう。

しかし、米本位が頭打ちになったからこそ、サツマイモの栽培も大々的に普及したといえる。

ただし、ジャガイモは、そこまで大々的には受け入れられておりません。

葉に毒があること。味が受けいれられにくいこと。調理法に馴染まないといった悪条件が重なっていたのです。

そのため土壌が痩せている土地や、寒冷な蝦夷地でのみ、限定的に栽培されました。

ヨーロッパでもジャガイモの普及は遅いもので、幕末に来日した外国人が栽培法を教えようと思ったら、すでに栽培されていて驚いたといいます。

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同時に閉塞していた世の中を救うため、蘭学も大いに注目されるようになりました。

ドラマ『大奥』の世界観では赤面疱瘡という疫病が大きく扱われますが、史実では、世の中の停滞を打開するため蘭学に目が向けられたのです。

だからこそ劇中でも、吉宗が蘭学を許し、田沼意次は赤面疱瘡の撲滅を託され――その意思を実現すべく、事態は動いてゆきます。

田沼が見出した青沼は、オランダ人と長崎丸原の女郎との間に生まれた設定です。

この遊郭では、清人やオランダ人の客もいて、そこには子供たちもいるわけです。

オランダ人と日本人の間に生まれ、医学に従事した人物としては楠本イネも有名ですね。

そう考えれば、語学と医学に通じていた青沼が開明的な田沼に抜擢されても不思議ではない。

青沼の生まれ育った街である長崎に足を踏み入れたのは、本草学に通じた、当時の自由人である平賀源内(鈴木杏さん)でした。

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なぜ、西洋の植物が調べられていたのか?

『大奥』シーズン1の最終回では、薬種問屋に婿入りした水野進吉が「西洋の植物でも赤面疱瘡に効かなかった……」と悔しそうに語る場面がありました。

進吉が採薬使として日本全国で薬を探し回り、猿の肝が赤面疱瘡に効くと誤認した顛末も描かれています。

その後も彼は海外にまで範囲を広げ、特効薬を探していたことがわかる言葉です。

そうなってくると気になりませんか?

江戸の水野進吉は、どうやって西洋の薬を入手したのか?

それは何も『大奥』だけがオリジナルで設定したのではなく、史実でもそのルートは確かにありました。

平賀源内の交友を見ていくと「カピタン」(キャプテン、商館長のこと)が出てきます。

『大奥』でも、耕牛と話す立派な武士を被ったオランダ人が出てきました。あれがまさしく「カピタン」、イメージ通りの姿です。

カピタンとはオランダ商館長のことであり、長崎で交易を終えた彼らは江戸までやってきます。

将軍に交易の御礼をするためです。幕府側もお土産を渡します。

旅自体がなかなか楽しいし、カピタンにとっても、迎える側にとっても、どちらも楽しい機会。

それだけに頻繁に行われていて、寛永10年(1633年)から嘉永3年(1850年)まで、実に166回もの旅がありました。

蘭学に興味のある知識人たちは、彼らカピタンたちとの面会を求めます。

そんな異文化交流サロンとして使われたのが、カピタン一行の泊まる「阿蘭陀宿」でした。一例として挙げると江戸の「長崎屋」が有名ですね。

つまり水野進吉も阿蘭陀宿へ向かい「病気に効く薬草はないか?」と依頼すれば入手できるチャンスはあったと言えます。

田沼意次が「オランダ語と医学に通じた者がいないか?」と尋ねれば、捜索ルートも得られたでしょう。

史実における青木昆陽は、サツマイモ栽培について書いた『蕃藷考』(ばんしょこう)を記し、享保18年(1733年)、大岡忠相経由で吉宗に届きました。

かくしてサツマイモ栽培が定着したわけですが、ドラマでは「黒木という男がサツマイモ栽培を定着させた」という言葉があり、それを黒木自身が否定してみせます。

「青木昆陽という学者が手掛けている」と、黒木は訂正するのです。

つまり

青沼+黒木=青木

そんな仕組みで定着したのが『大奥』の世界観。

史実では元文5年(1756年)、青木昆陽は本草学者・野呂現状と共に、オランダ語学習に励むよう命令を受けています。

一方、ドラマでは黒木が蘭学に詳しい家に生まれ右筆として大奥入りを果たし、オランダ人の父を持つ青沼が協力し「青木」となる。

なんとも巧妙な設定ではないでしょうか。

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