宝永大噴火と宝永火口

宝永大噴火で大きく開いた宝永火口

江戸時代

富士山の中腹に超弩級の穴を開けた「宝永大噴火」の恐ろしさとは

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宝永大噴火
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知るも知らぬも おほかたは咳

宝永大噴火ではマグマはさほど流出せず、火災の発生件数は少なめでした。

不幸中の幸いと言えますが、降灰だけでも尋常じゃない被害が出ております。

たとえば、火山灰があまりにも長く降り続いたため、その地域はずっと明かりを灯さねばならず、燃料の価格が高騰しました。

当時は「明かり=油」を使うものですから、これだけでもかなりの経済的打撃です。暗くなったら寝るのが当たり前の時代とはいえ、昼間まで暗いと何もできませんからね。

また、風で煽られた灰が細かな塵となって舞い散り、それを吸った人々の呼吸器官を痛めました。

当時の様子を描いた狂歌に、こんなものがあります。

「これやこの 行くも帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳」

行き交う人が知人だろうと知らない人だろうと、誰も彼もが咳き込んでいた

という、リアルな光景が目に浮かびますね。

おそらくは、詠んだ当人も咳をしていたのでしょう。

百人一首にもある、蝉丸の「これやこの 行くも帰るも 別れつつ しるもしらぬも あふさかの関」をもじったものです。

人だけでなく、農業への被害も深刻でした。

現代でも活火山の近くにお住まいの方はよくご存じかと思いますが、火山灰は一度降って終わり――ではありません。

大変なのは、むしろその後。噴火が完全に収まるまでは灰が降り続いて日光を遮りますし、地面に灰が積もり、下手をすれば作物は全滅です。

しかも水を吸うと最悪です。

非常に重くなって、簡単には取り除けなくなります。

宝永大噴火では、火山灰が偏西風に乗って、主に富士山の東へ降っていきました。

そのため駿河国駿東郡北部(静岡県東部)から相模国西部(神奈川県西部)での被害は甚大なものとなりました。

では火山灰による被害の一例を見てみましょう。

 


噴火で酒匂川が氾濫とは?

火山灰の被害で、特に酷かったのが富士山の東から静岡・神奈川県へ流れる酒匂川(さかわがわ)流域。

堆積した火山灰などの噴出物によって水位が大幅に上がってしまい堤防が決壊、水没する村が多々あったと伝わります。

しかも、復興がなかなか進みませんでした。

雨が降ると大量の火山灰が流れ、たびたび氾濫したためです。

本格的に手が入れられるようになったのは、なんと享保十一年(1726年)のこと。

大岡忠相(“大岡越前”で有名なあの人)が抜擢した農政家・田中休愚(たなか きゅうぐ)が担当しました。

彼はそれ以前からも各地の治水工事で名を上げており、その評判が八代将軍・徳川吉宗にまで届いたほどの人物です。

吉宗の御前で直接諮問した後、酒匂川などを任されるようになりました。

休愚によると、

「幕府から復興工事を命じられた大名は、費用として集めた金を商人に渡すだけで一向に仕事をしない」(意訳)

という状況だったとか。

あまりに被害が大きすぎて、最初から諦めてしまう大名が多かったのかもしれません。

ただでさえ治水工事は難しいものですし、このときの酒匂川については、雨が降るたびに上流から新たな灰や砂が流れ込んできたのですから匙を投げてしまったのでしょう。

賽の河原の石を積む子供と、それを邪魔する鬼のような状態だったでしょうね。

 


以前の収穫量に戻すまで90年もの月日が

藩単位で見ると、特に深刻だったのが小田原藩です。

幕府に領地の半分を返してまで救済を求めたにもかかわらず、20年経っても復興できませんでした。

米の収穫量が、宝永大噴火以前の状態に戻るまでは、なんと90年近くかかったとか。

宝永四年(1707年)からの90年後は、寛政九年(1797年)ですから、松平定信が失脚した後ぐらいですね。

将軍でいえば十一代・徳川家斉の頃にあたります。

徳川綱吉時代の噴火が、六代後の将軍まで残っていたって、やっぱり凄まじい話ですね。

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大正十二年(1923年)の関東大震災(大正関東地震)による被害が2021年現在まで残っているようなものです。

災害の恐ろしさ(と同時に復興技術の進歩)が分かりますね。

宝永大噴火は宝永四年(1707年)11月23日から12月8日まで続いています。

新暦では同年12月16日から31日の大晦日。期間の長さや季節も、物理的・心理的被害を増したでしょう。

11月26日あたりまではほぼ断続的に灰が降っていたとされ、その後一旦活動が穏やかになりながら、12月8日夜に再度激しく噴火。

さらにこの日の夜遅くにも爆発が観測され、ようやく宝永大噴火は収束していきます。しかし……。

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