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【宝暦治水事件】
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こんな無茶ぶり許せん! 一戦交えるべきだ!
さて、この時の工事は、
「三つの川の流れを完全に分けて、水の勢いを減らすことによって水害を防ごう」
というものでした。
理屈的には理想ですが、実行するとなるとそう簡単には行きません。
まずは既に壊れてしまっていた堤防を修理し、その上で流れを分ける工事をする予定でした。
が、この地域は木曽三川以外にも複数の川が流れていること、そして東側が高く、西側が低いという地形から「どこかをせき止めようとすると、他の川の水が増す」という、にっちもさっちもいかない状態であることがわかります。
その度に地元の人々は水に悩まされ、薩摩藩は地元民の収入を補うために高い賃金を出して雇い、両者とも苦しい状態が続きました。
地元民から「はるばる難しい工事をしに来て下すってありがてえ」(※イメージです)ということで、薩摩の人々に食事などが差し入れされたともいわれています。
現地での感情は悪くないものだったと思われるのが、不幸中の幸いというか、何というか。
あまりにも進展の見えない工事や金策の苦しさから、薩摩藩では「こんな無茶ぶりをするなんて、幕府は薩摩を生かしておかないつもりに違いない! 一戦交えるべきだ!!」という声も持ち上がり始めました。
とはいえそれでは、また戦国の世に逆戻りしかねません。
あるいは「ほい、来た! アンタら、潰すよ^^」となるのは火を見るより明らかです。
そのため、現地に来ていた薩摩の家老・平田靱負(ゆきえ)は血気盛んな者たちをなだめ、幕府に窮状を訴える手紙を出しました。
どこの藩でもご家老は苦労しますね……(`;ω;´)
赤痢による犠牲者も出て、靱負もついに腹を切る
しかし、状況は一向に改善しません。
それどころか、せっかく作った堤防がたびたび壊されるという不審な事件が起こるほど。
犯人をとっ捕まえてみたところ、なんと「幕府の指示でやったから俺は悪くねえ!」(※イメージです)とのたまう始末です。
これでは薩摩藩士たちが「幕府は民を救うつもりなんてない。薩摩の金を絞れるだけ絞って、取り潰すつもりなんだ!!」と思うのも無理のない話です。
そこで、宝暦四年4月14日に幕府への抗議として、切腹する人が出てしまったのでした。
その後も切腹する者は後を絶たず、実にその数53人にも達し(うち薩摩藩士が51人)、靱負は三重の面で困り果てます。
工事はうまくいかないし、お金は出て行く一方。その上、当時は勝手な切腹は重罪とされていましたので、それを理由として薩摩藩が取り潰されるかもしれないからです。
そうこうしているうちに、今度は慣れない土地のためか、薩摩藩士の間で赤痢が流行り始めてしまいました。
157名が罹患し、33名が死亡。
おそらくは、地元の人々も同じ病で命を落としたことでしょう。
それでも薩摩隼人の意地か、靱負以下、生き残った藩士たちは工事を完了させました。幕府方の確認も済み、靱負は国許へ報告書を出します。
次の日、靱負は腹を切りました。
おそらく、ずっと「全て見届けるまでは死ねん」と思っていたのでしょう。
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