こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【前田綱紀】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
戦国最後の武将と呼ばれる祖父に帝王教育
祖父の利常は、あの前田利家の子供です。
戦国武将といえるギリギリの世代であり、そのため前田綱紀にも武道を奨励します。
前田利家~槍の又左62年の生涯~信長に追放されてもド派手に復活!
続きを見る
前田利常【鼻毛大名】は利家の子にして最後のリアル傾奇者だった!
続きを見る
同時に利常は、孫の藩主としての能力を養うため、他藩で「名君」と呼ばれていた人物と引き合わせています。
例えば
仙台藩の2代目・伊達忠宗
岡山藩の初代・池田光政
など。
彼らが綱紀のお手本として選ばれたばかりか、他の客が来たときも綱紀を隣室に待機させ、話を聞くように言いつけていたと言います。
座学だけでなく他人の実体験から活きた勉強も修めさせたかったのでしょう。
かくして、じーちゃんの手で立派に育てられた綱紀は、1654年(12歳のとき)に江戸城で元服を果たして正四位下の位階を受け、1658年(16歳)に保科正之の娘を正室にもらいました。
嫉妬に狂った於万の方(保科正之継室)が毒殺を決行!予定が狂って実の娘が犠牲に
続きを見る
藩主としての地位固めは順調に進んだんですね。
結婚から8年して彼女が亡くなった後、新たに正式な妻を迎えることはなかったそうです。
また、利常が亡くなった後は、舅である正之を政治の模範として藩政に励みました。
大藩ともなれば、その政治は非常に難しいものですが、果たして綱紀はどう取り組んだのか?と言いますと……。
生活保護
農業方面のさまざまな制度を整えたり。土地を整備したり。
前田綱紀は色々やっていますが、特徴的なものが二つあります。
一つは飢饉の際に作った【御小屋】という施設です。
生活に困っていた人々に米を支給したり、病人のための医者を配置していたところで、今で言えば生活保護制度にあたるでしょうか。綱紀はこうした救民制度を以前から考えていたようです。
しかし、平時に設けるには費用がかかりすぎるということで家老たちから反対されていたとか。
そりゃあ、タダでご飯が食べられて病気になったときも見てもらえるとなれば、タカりに来る不届き者も予測できたでしょうしね。
飢饉のおかげで望み通りになったと見ると皮肉ですよね……。まぁ、庶民が助かったので結果オーライですが。
もう一つの特徴は【学問の奨励】です。
綱紀自身が学問好きでもあり、ジャンルにこだわらず武芸や建築、文芸などありとあらゆる学問を奨励したといわれています。
正之には「儒学以外はちょっと……」と言われたようですが、気にしなかったんですね。
江戸の出来杉君・正之が相手だったから穏便に済んだのであって、もし別の人だったら大ゲンカになってたんじゃないでしょうか。度胸の良さはジーチャンの薫陶かもしれません。
※続きは【次のページへ】をclick!