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【佐野政言】
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事件の8日後、切腹して果てる
取り押さえられた佐野政言は蘇鉄の間に押し込められ、町奉行・曲淵景漸に引き渡されました。それから小伝馬町の揚屋に入れられます。
佐野にとって屈辱的なことでした。
この揚屋は、お目見え以下である御家人らの未決囚が入れられる牢なのです。旗本である佐野の身分に合わぬ措置と言えます。
そして取り調べが行われ「乱心」とされました。
斬られた意知は事件の8日後、 天明4年4月2日(1784年5月20日)に没したとされます。享年36。
意知の死が発表された翌4月3日、佐野に切腹が申し渡されました。
乱心といえど、殿中で刀を抜き、若年寄を殺したことがその理由。
享年28。武士としての最期を迎えたのです。
この凶事により、三河以来の旗本佐野家も改易とされました。
遺産は父に譲ることが認められたものの、佐野家の男子は政言であり、彼には子がなかったのです。
幕末に佐野家の再興がなされるかと思われたものの、政治的混乱でその話も消失しています。
政言の遺骸は遺族に引き取られ、神田山徳本寺に葬られるました。
すると思わぬ事態へ発展してゆくのです。
佐野善左衛門は「世直し大明神」
佐野政言の墓ができあがると、次から次へと参拝者が訪れました。
焼香の煙がもうもうと立ち込め、お供えの花は溢れるほどで、賽銭箱には大量の銭が投げ込まれます。
めざとい江戸っ子がこれを見逃すわけもありません。
筵(むしろ)を敷いて、参拝客に花と線香を売り捌く者が現れたかと思えば、境内では飲料水を売る者まで出てきます。
もはや佐野の墓参は、江戸っ子のブーム、ちょっとしたイベントになるのです。
流行に敏感で、何かとはしゃぎたがる江戸っ子にしても、これは一体どういうことなのか。
と思ったら、こんな噂が当時の江戸っ子には広まっていました。
・田沼意知の横死は報いである
・田沼家周辺で、事件の数日前から米が赤く見えた
・田沼意知の葬儀で、田沼家の家紋をまとったものを、鍾馗の姿をしたものが切り付けていた
ただの噂のようで、意図はわかります。
「米が赤い」ということは、不吉なだけでなく、米に対する江戸っ子の思いが透けて見える。
「鍾馗」とは、疫病を祓う神とされます。
こうした噂からは
・米の価格をあげた疫病のように思われている田沼親子の姿
が見えてきます。
さらになんと「佐野善左衛門が腹を切ってから、米の値段が下がり始めたってよ」と、まことしやかに囁かれるようになったのですから、目ざとい江戸っ子が放っておくはずがない。
その結果、
「あの方は人でねえ、神だ、諸人お救いのためにこの世に生まれたにちげぇねぇ!」
「世直し大明神だぁ!」
と崇めるようになったのです。
殺人犯が「世直し大明神」になった瞬間でした。
止まらぬ物価高騰に、江戸っ子は苦しんでいた
佐野政言の凶行に、人々がスカッとした思いを抱くのも無理はないかもしれません。
当時の江戸には、どんよりとした空気が漂っていました。
・天明2年(1782年)は凶作
・天明3年(1783年)には淺間山が大噴火
こうした災厄に対し、幕府は抜本的な政治改革を行うどころか、田沼時代は飢饉を悪化させかねない経済政策をとってしまいました。
「五穀豊穣」という言葉の通り、日本は複数の穀物を主食としてきました。
時代がくだるにつれ米は別格の人気を博し、江戸幕府では石高を経済の指標とするようにまでなり、その結果、稲作重視の経済政策が進められたのは当然の帰結といえるでしょう。
しかし、同時に大きなリスクもありました。
冷害です。
米は寒さに弱く、他の穀物を米に転換していくと、いざというとき飢饉が起きやすくなる――そうした歪みが当時の江戸にまで到達していたのです。
天明の大飢饉は浅間山とヨーロッパ火山のダブル噴火が原因だった
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英国領インドの飢餓地獄が凄絶すぎる~果たして飢饉は天災なのか人災だったのか
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田沼時代を終わらせかねない佐野の凶行に江戸っ子が喝采を浴びせたのには、そんな閉塞感がありました。
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