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【島津に暗君なし】
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6代 島津宗信 1728-1749
島津継豊の長男。
若い頃から周囲に才能を認められた将来有望な嫡男で、1746年に19才で藩主となります。
しかし、そのわずか3年後。
江戸へ向かう途中で病を発症し、22才の若さで早逝してしまいます。
子供はなく、跡継ぎは、弟の島津重年が務めました。
7代 島津重年 1729-1755
島津継豊の次男。
当初は、加治木島津家を継いでおりました。
が、前述の通り、兄の宗信が病に亡くなると、幕府の許可を得て本家に戻って、1749年、7代目藩主に就任。翌年、いきなり「実学崩れ」という弾圧事件を迎えます。
辛いことは続きます。
1753年、幕府からの無理強いとして知られる「宝暦治水事件」が起きるのです。
長良川・木曽川・揖斐川(いびがわ)の通称「木曽三川」で治水工事を請け負うことになり、その結果、多くの藩士と家老・平田靱負(ゆきえ)を失います。
莫大な費用だけでなく、80数名もの殉職者を出し、重年もまた1755年に27才の若さで亡くなってしまいました。
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第8代藩主・島津重豪 1745-1833
英邁で知られる島津斉彬。
実父の島津斉興が、その息子を苦い顔で見ていたのはドラマでもご存知でしょう。
その一因が「8代目の再来となりかねん!」というものでした。
いったい8代目・島津重豪には、どんな問題点があったのか。
延享2年(1745年)、後に重豪となる人物は、加治木領主である島津重年の嫡男・善次郎として生まれました。
その日のうちに母の都美は亡くなってしまいます。
難産であったのでしょう。享年19という若さでした。
寛延2年(1749)、父である重年は亡くなった兄・島津宗信のあとを継いで薩摩藩主となりました。
しかし、この重年は前述の通り、宝暦治水事件による心労もたたったのでしょう。
工事現場視察のあと、宝暦5年(1755年)に27才という若さで亡くなります。
かくして僅か11才という幼さで、重豪は薩摩藩主となります。
重豪は家族には恵まれませんでした。
兄弟もおらず、後見人の祖父・継豊は病気がちで、鹿児島で療養。
そんな寂しい重豪を愛したのは、江戸にいる浄岸院でした。
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彼女、元は将軍の養女であり、大変プライドが高く、またセレブ志向でもありました。
孫である重豪も、そんな浄岸院の影響を受けてやっぱりセレブなお殿様になってしまうのです。
重豪は、暗君ではありません。
セレブ志向で派手好きとはいえ、意義ある金の使い方をしようと考えました。
これからは何と言っても蘭学の時代。そう考え、ジャンジャンとその教育施設を整えたのです(安永の改革)。
もうひとつ、浄岸院の影響を受けて力を入れたのが、将軍家との姻戚関係です。
この関係は、幕末の篤姫に至るまで影響を与えるのですが、これまた莫大な交際費・婚礼費用がかかるわけです。
将軍家との関係を深めておきたい浄岸院は、重豪の正室に一橋宗尹の娘・保姫を迎える縁談をまとめました。
幕末にも続く島津家と一橋家の縁は、ここから始まっていたのです。
しかしこの保姫が夭折してしまったため、浄岸院は頭を悩ませます。
「重豪の姫を、絶対に将軍家に輿入れさせなさい」
浄岸院はそう遺言を残し、世を去りました。
将軍家の正室は、三代目の徳川家光以来、皇族または摂関家の娘にするという決まりがあります。それを破るのですから、大変なことです。
そして、金もだいぶ使って、茂姫をのちの将軍・徳川家斉に嫁がせたわけですね。
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将軍の岳父となった重豪は、その権勢から
「高輪下馬(高輪は薩摩藩邸の場所、下馬は将軍のこと)」
と呼ばれました。
藩主の座にあること32年。天保4年(1833年)に89才で没するまで80年以上藩政に関わった精力的な人物でして。
ただし、「暗君ではない=問題がない」わけではなく……ただでさえ借金だらけの薩摩藩の財政が完全破綻寸前まで至ったのは、たしかに重豪の精力的過ぎる行動が原因でした。
9代 島津斉宣 1774-1841
安永2年(1773年)、江戸生まれ。
重豪の長男であり、天明7年(1787年)に15才で父の隠居により家督を相続します。
ただし、まだ若年だったため、寛政3年(1791年)まで重豪が政務を助けるというかたちで、藩政を動かしていました。
精力的な重豪は、そもそも息子に任せるつもりはなかったのです。
そもそも重豪が引退したのは、斉宣の姉・茂姫が将軍家に嫁いだから。
薩摩藩主が、同時に将軍の岳父になるというのは、さすがに外聞が悪いという配慮に過ぎなかったのです。
重豪は将軍岳父として、大勢の人々と盛んに交際します。
その金遣いは藩以上に荒くどうにもなりません。
借金が膨れ上がる様子を見て、若き斉宣はこのままではいけないと決意を固めました。
そこで文化2年(1805年)、斉宣は『鶴亀問答』を記して家臣に示します。
これは、鶴と亀の問答形式で、あるべき政治について語らせたものでした。
藩政改革への熱い決意を示したのです。
しかし、これに父・重豪が激怒。自分のやり方を全否定しやがって、というわけです。
文化5年(1808年)、重豪は
「将軍家御台所になった茂姫に失礼」
「将軍岳父である自分に対してもナメきった態度」
といった理由をつけて、藩政改革を担った重心を根こそぎ処断しました。
改革派グループは朱子学の『近思録』を重視していたため「近思録崩れ」と呼ばれます。
犠牲者は以下の通り。
・切腹13名
・遠島約25名
・寺入42名
・逼塞23名
・役免・慎・待命・揚屋敷入・奉公障・叱の処分12名
計115名という大量処分に加え、改革を命じた斉宣もただでは済みません。
長男・島津斉興に藩主の座を譲るよう、強制されたのでした。
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