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【田沼意次】
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幻となった蝦夷地開発計画
工藤平助の娘である只野真葛は『むかしばなし』にこう記しています。
平助があるとき、田沼家用人とこんなやりとりをしたというのです。
「殿は、何か偉業を成し遂げた老中として歴史に名を残したいのだ」
「蝦夷地から貢物を得られるようにしたらどうですか。これほどの偉業はありませんぞ」
「おお、なるほど!」
かくして平助は田沼意次に蝦夷地政策を説くために『赤蝦夷風説考』を書き始めた――これは平助の娘が記したものであり、必ずしもこの通りの経緯とは思えません。
しかし実際に天明元年(1781年)4月、平助は『赤蝦夷風説考』下巻まで書きあげ、天明3年(1783年)には同上巻を含め、ほぼ完成させていました。
田沼時代の象徴としての蝦夷地政策があったのでしょう。
もしも実現できていたらば、どれほど日本史が変わったか……と思われるほどの内容でした。
蝦夷地の金銀山を発見し、ロシアとの交易を進める。
経済政策として、夢に満ちています。すでに本州の金銀山は掘り尽くしているけれども、蝦夷地は未踏といえる。その金銀を得ることができれば、大いなるメリットがある。
ロシア交易も可能性に満ちています。
ただし、蝦夷地政策を出していた松本秀持は方針転換したようで、新田開発案に方針転換し、意次もこれを認めています。
農耕に従事することで、狩猟をしなくなると考えていた。そうなれば松前藩の収入源となる毛皮等が入手できなくなるためです。
これは惜しまれる後退案でもあり、石高に価値を見出す従来の経済政策へ戻るものではありました。
蝦夷地開発は田沼時代終焉と共に終わり、松平定信の政治で否定されたようで、実際はそうでもありません。
近世から近代へ向かう歴史の流れにおいても、この時代の蝦夷地は重要です。
近世まで国境、宗教、民族、文化の境界は曖昧でした。
日本とロシアの間に蝦夷地があり、そこにアイヌが暮らしているという状況が当然のこととして受け入れられていたのです。
しかし、日本とロシアが国家としてのアイデンティティを意識し始めると、両国の境目はどこなのか?とキッチリ意識するようになる。
アイヌをどちらかの国の民として認識するべきではないのかという意識も生まれました。
幕府は、現在の北海道だけでなく、樺太、択捉、国後まで直轄領とし防衛を意識。
北海道には五稜郭をはじめとして当時最新鋭の西洋技術を取り入れた城郭が築かれました。
日本の近代への転換は、アメリカ艦隊である【黒船来航】による列強との接触が契機と説明されることが一般的です。
しかし、実際はアメリカではなくロシアが先行していた。
日本の近代とはいつからなのか? そのことを正確に考えるとなると、田沼時代は重要だと言えるでしょう。
天変地異が続発する天明年間
前述の通り、田沼政治は天明期になってから本格的に推進されました。
しかし、運の無いことに、この天明年間は天変地異が続発してしまいます。ザッと見ておきますと……。
こうした天災に伴い各地で百姓一揆が起き、米価は上がり、人々の生活は苦しくなるばかり。
実は天変地異は日本のみならず世界規模で発生しており、フランスではちょうど天明年間頃に冷夏が連続しました。
気候変動による経済停滞の影響は、豊かな農業が国の礎にあるフランスにとって、重大な危機。
これが1789年、日本ならば天明9年【フランス革命】の一因とされます。
フランスでは気候の悪化が革命につながりましたが、日本では同じ展開により田沼の改革が頓挫させられることになるのです。
意次は、幕府財政の見直しをはかり、さまざまな政策を打ち出しました。
しかし、その狙いが理解できるものばかりではなく、不信感を募らせる者がでてくる。煩雑なやり口に嫌気がさすものもいる。
そしてとどめが、大飢饉です。
天明の大飢饉の最中、全国的にも深刻な打撃を受けたのが仙台藩でした。
仙台藩は米所として名高いにもかかわらず、近隣諸藩にまで出向き、米を買い付けようとする藩役人の姿が軽蔑されたものです。
なぜそうなるか?
当時の人々は理解していました。
米を飢饉に備えて備蓄するどころか、換金する事と前提として藩財政を運営しているからこそ、そうなった。
いわば人災です。
当時の仙台藩主・伊達重村は猟官運動に励み、田沼人脈に贈賄していたことも、悪評をさらに高めたとしてもおかしくありません。
そんな仙台藩との対比として際立ったのが、同じ陸奥にある白河藩でした。
松平定信が藩主を務めるこの藩では、一人も餓死者を出さなかったのです。
近世から近代へと向かうこの時代、民衆意識も変わっています。
東アジアの伝統的な考え方として【天譴論】(てんけんろん)があります。
為政者が無道な振る舞いをすると、天が怒り、罰するために天変地異を起こすというもの。
当時の日本人はこの【天譴論】をそのまま受け止めるわけではないけれど、今回の大飢饉は天災だけでなく人災の側面もあり、かつ大きいと察知できました。
仙台藩と白河藩の対比を見れば、それは明白です。
世の中なんでも金、金、金……そうやって食べていくために必要な米まで金勘定の道具にした結果が、この悲惨な世の中じゃないか!
そんな不満が鬱積しても不思議のない状況でした。
田沼意知の横死
そんな田沼への反発はついに表面化します。
天明4年(1784年)、嫡子の田沼意知が江戸城中で佐野善左衛門政言に斬殺されたのです。
「覚えがあろうッ!」
意知を斬りつけるという凶行の間、佐野は何度もそう叫んだとされます。
意次は、自分一代で遠大な改革は実現できないとわかっていたのか、嫡男の意知を若くして若年寄にまで引き立てておりました。
そうしたことが古参旗本である佐野の恨みを買ったのか。犯行動機については、後世さまざまな推察がなされていますが、確定までには至りません。
当時から田沼の元の氏は佐野であり、その関係性も取り沙汰されたものでしたが、これも推察に過ぎないと言えます。
明確なのは、江戸庶民も田沼政治を嫌い、憎んでいたということです。
意知の死を受け、佐野も切腹しました。
すると佐野の墓には江戸の民による墓参者が群をなして訪れ、線香の煙がもうもうとたちこめるほどとなり、寺の前には参拝者に飲料水を売る者まで現れました。
「世直し大明神」として佐野は称えられるようになるのです。
山東京伝のような文人は、めざとく田沼意知暗殺事件をパロディにした【黄表紙】を売り出すほどでした。
それでも意次は幕閣にとどまり、政治改革を続けます。
意知の死の翌年には、さらに一万石の加増もありました。
そして天明6年(1786年)、意次は用人・三浦庄司の献策「御用金」を採用し、実現に移そうとします。
これは元を辿れば桑名藩士・原惣兵衛のアイデアです。
彼が大阪にいたとき、東照宮の修復のために豪商から金を集め、成功したことがありました。
これを全国規模に拡大し、町人や農民まで含めて金を徴収することを思いついたのです。
・集めた金を「公金貸付」制度に利用する
・そのうえで大阪に「貸付会所」という組織を設立する
・出資者には利益をつけて還元すればよい
いわば現在の銀行に通じる斬新な策でした。
しかし、そう簡単に受け止められるわけがありません。
希望者が金を出すならまだしも、強制的に出させるとなればただの増税としか思われません。
金に汚ぇ田沼がまた何か言い出しやがったな!
そんな猛反発を受け、意次の悪評はますます高まってしまうのです。
それでも徳川家治の寵愛さえあれば、意次も守られていました。
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