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【須原屋市兵衛】
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確信的な学術書で知識を世の中を広める
そんな売れ筋から暖簾分けされた須原屋市兵衛は、『べらぼう』だけでなく、他のフィクション作品においてもしばしば登場しています。
例えば2018年の正月時代劇『風雲児たち』では、遠藤憲一さんが演じていました。
杉田玄白の『解体新書』はじめ、歴史を動かしたベストセラー出版を支えた重要人物であり、しかも須原屋市兵衛は手堅い売れ筋を扱うだけでなく、世を変える志ある書物を推進したものです。
8代将軍・徳川吉宗以降に拓かれた蘭学への造詣も深く、平賀源内や杉田玄白といった蘭学者とも親しくしていました。
江戸の出版はネットワークが重要です。
才能ある人々が顔を合わせ、協力し、進めていかねばどうにもならない。そして叶うならば出版したい。
須原屋市兵衛ならば世に出すという確信が持てればこそ、著者も執筆活動に励むことができたのです。
須原屋市兵衛の刊行は、宝暦12年(1762年)建部綾足『寒葉斎画譜』からスタート。
翌宝暦13年(1763年)には、平賀源内『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)の版元となっています。

国立科学博物館に展示されている『物類品隲』/wikipediaより引用
『べらぼう』劇中にも登場したこの本は、本草学者で源内開催の薬品会におけるカタログともいえる書籍であり、様々な植物や薬物が掲載されたものでした。
こうして源内との繋がりが生まれていったのでしょう。

平賀源内/wikipediaより引用
源内の発明した“燃えない布”(現在のアスベスト)を解説した 『火浣布略説』。
福内鬼外の筆名による浄瑠璃『神霊矢口渡』も、須原屋市兵衛が刊行しました。実に長いつきあいといえます。
杉田玄白ら気鋭の蘭学者が集い手がけた『解体新書』も、須原屋市兵衛が刊行すると決まっていたからこそできたものです。
ちなみにこの『解体新書』翻訳チームには平賀源内は入っておりません。
移り気な性格ゆえに地道な作業には向いていないと須原屋市兵衛が判断し、あえて外したのかもしれませんね。
なお『解体新書』が刊行されたのは安永3年(1774年)であり、『べらぼう』が始まる明和9年(1772年)の2年後にあたります。
そんな縁があったからこそ、劇中の須原屋に杉田玄白が出入りし、市兵衛が源内を心配しているというシーンもあったんですね。

杉田玄白/wikipediaより引用
田沼政治のあとも、意気軒昂に出版を続けるも…
安永8年(1780年)、平賀源内は無念の死を遂げます。
『べらぼう』劇中では、その死をめぐって、須原屋市兵衛が蔦重と共に田沼意次に公正な裁きを訴える場面がありました。
この回では、平賀源内謀殺に一橋治済が関わっていたと示唆されます。
同時に平賀源内は、田沼意次に蝦夷地開発とロシアについての提言もしていましたが、これはあくまで脚色の範囲とみなしてもよいかと思います。
田沼意次に対し、ロシアの存在を知らしめたのは『赤蝦夷風説考』の著者で、仙台藩医である工藤平助が初めてとされています。

工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』/wikipediaより引用
ではなぜ、ドラマでは前倒しにしたのか?
というと、今後の伏線になることも考えられます。
ドラマでは田沼意次に源内の不審な情報を訴え出た人物が、黒幕である一橋治済に目をつけられる可能性があると思えなくもありません。
天明6年(1786年)、10代・徳川家治が亡くなると、主君という盾を失った田沼意次が失脚。
11代将軍には一橋治済の嫡子である豊千代が徳川家斉として就きました。
田沼に変わって政治の中枢に躍り出た松平定信は、それまでの政治方針を転換させます。

松平定信/wikipediaより引用
その方針の中には外交政策も含まれており、「蝦夷地を開発し、ロシアとの交易も視野に入れる」という意次の構想は定信によって破棄されてしまいました。
蝦夷地での調査報告すら宙に浮いてしまったほどで、定信は、国境の認識を従来の3代・徳川家光の頃まで戻すこととしたのです。
・蝦夷地は統治の及ばぬ「化外の民」であるアイヌが暮らす場所に過ぎず、幕領とは言い切れない
・それより先の国と関わるには及ばない
蝦夷地もロシアも現実に存在するにもかかわらず、“なかったこと”にまで戻そうとしたのです。
しかし、ロシア側からすれば、そんな日本側の事情に忖度するはずもありません。
同様に、ひとたび開いた目をまた閉じさせることなど、なかなかできぬものなのです。
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