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【和食の歴史】
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食の戦国時代
各地で群雄が争う戦国時代。この頃は、戦争以上に“外交”は大事な場でした。
大切な客や同盟相手をどうもてなすか。
そのことに戦国大名や武将たちは頭を悩ませていたわけです。
有名なところでは、織田信長が安土城で徳川家康と家臣団をもてなした饗応がありますね。
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信長自らが膳を運んだのですから、いかに気合いが入っていたかがわかります。
「男子厨房に入るべからず」という言葉を、戦国大名や武将が耳にしたら、一笑に付すことでしょう。
通人、粋人という自覚のある者は、自ら包丁を手にして料理することこそ、最高のおもてなしだと考えていました。
このころ来日した外国人は、武士にとって重んじられるスキルBEST3として、以下の三つをあげています。
1. 弓術
2. 蹴鞠
3. 料理
華麗な包丁さばきで料理を切り分けることは、武家や公家にとって、スマートで尊敬される特技であったのです。
ちなみにヨーロッパでも、食卓で肉を適切に切り分けて配ることが、紳士のたしなみとされています。
給仕は使用人がしても、肉料理を切り分けるのは主人の名誉ある役目なのです。
東北の人気大名・伊達政宗公もこんな言葉を残しておりました。
「ご馳走っていうのは、旬の品をさり気なく出して、主人自ら包丁を持ってもてなす事だぞ」
そして忘れてならないのがこの方でしょう。
当代きっての文化人武将である細川藤孝(細川幽斎)。
文武両道だった藤孝は料理の名人であり、更にその息子である細川忠興(三斎)も、父親同様に包丁名人を自覚していました。
俎(まないた)が少し薄いようですな
細川忠興には、こんな話があります。
ある日、彼は自慢の包丁の腕前を披露し、茶の師匠である千利休に鯉料理を振る舞いました。
「結構な腕前です。ただし、俎(まないた)が少し薄いようですな」
利休は料理を味わったあと、そう言いました。
完璧な調理道具を揃えていたはずだと忠興は驚き、早速、俎を調べてみました。
すると家臣が「実は俎の表面が汚れておりましたので、表面を少し削りました」と言うではありませんか。
忠興は利休の味覚に驚きました。師弟両人ともに、料理に関して抜群のセンスがあったというわけです。
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さらに戦国時代で忘れてならないのが【懐石料理の成立】です。
日本文化における巨人・千利休が茶の湯で振る舞った料理が原型とされ、おもてなしにふさわしいものです。
また、来日した宣教師からは南蛮菓子や南蛮料理が伝わり、ますます舌は肥えていくのでした。
江戸時代 外食産業と郷土料理
太平の世が訪れた江戸時代。
食生活も大きく変貌しました。
まず料理屋が生まれます。
戦国時代の武士は、おもてなしをしたいと思えばどこかに招いて料理をふるまいます。
これが現代との大きな違いで、今であれば、
「口コミサイトでみかけた美味しい店に招待するか」
「出前でも取るか」
となる方が多いでしょう。
そうなったのは江戸時代以降。
料理屋も、仕出し屋も、この頃から始まりました。
上流階級でなくとも、他人が作った料理を食べる時代となったわけです。
「最近の若いものは、料理もせんと買ってきて済ませようとする」
誰かがこう愚痴を言うようになったのは、コンビニ弁当が流行してからではありません。
江戸時代には、テイクアウトできる屋台が既にありました。
レシピ集も発行させるようになりました。
江戸時代以降の再現レシピはインターネット上でも検索できますが、それはひとえに『レシピ集』が残されているからです。
それ以前の料理となると、曖昧な描写や、名前から類推するしかない場合がほとんどです。
ゆえに江戸時代以降の料理は、それ以前と比べて「美味しそう!」と思うものも増えてきます。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズに出てくる江戸前の料理なんて、まさに垂涎ものではないでしょうか。
さらに江戸時代になると、料理に地域ごとの差が生まれてきます。
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