昭和6年(1931年)11月11日は渋沢栄一の命日です。
新一万円札の顔であり、大河ドラマ『青天を衝け』の主人公にも抜擢され、今や日本で知らない人はいないでしょう。
しかし彼は、取り扱いが難しいのも事実。
若い頃は危険なテロ思想に傾倒したばかりか、女性関係が当時の規範を考慮しても度を越して乱れており、とても子供たちや現代人の見本になれるとは思えません。
それを言ったら昭和の千円札・伊藤博文も同じですが、両者の負の面は以下の関連記事にお譲りして、本稿では渋沢栄一の事績について注目していきたいと思います。
なぜ渋沢は「近代資本主義の父」とまで呼ばれるようになったのか。
92年の生涯を振り返ってみましょう。
天保生まれの幕末青年
天保11年(1840年)、渋沢栄一は武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に生まれました。
父・市郎右衛門、母・エイの長男。
家業は農家で、養蚕と製藍も兼営していました。
意外かもしれませんが彼が生まれた天保の関東は、すでに混乱が始まっていた地域です。
詳しくは以下の記事に譲りますが、
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幕末最強の剣術は新選組の天然理心流か?荒れ狂う関東で育った殺人剣の真髄
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要点だけ説明しますと……。
嘉永6年(1853年)に黒船がやってきた社会不安から治安が悪化したという印象がありますが、実はそれよりも数十年早く、制度疲労を起こして社会が荒れていたのです。
幕末は、荒れるべくして荒れた、と申しましょうか。
渋沢栄一の故郷は江戸から20里(80キロ)という立地です。水運が盛んで、河岸には問屋・蔵が立ち並び、労働者や旅客の泊まる宿場は絶えず賑わっておりました。
江戸からの情報と、商業が盛んな場所であったことは、彼に大きな影響を与えたことでしょう。
渋沢家は、当時の典型的ともいえる関東の豪農でした。
苗字帯刀を許されていて、分家も多い。当然、資産もある。
父の市郎右衛門は、そんな一族でも分家「東ノ家」にて誕生。あまりに優秀だったため、本家「中ノ家」再興のために迎えられるほどの秀才でした。

旧渋沢邸(深谷市)
渋沢当人も父親の才を受け継ぎ、花開かせたといえるでしょう。
彼ら一族の製藍は、信州上田(長野県)にまで販路があるほど広範囲で営まれておりました。
幕府は許せない! 攘夷だ、しかし……
そんな環境&時代に生まれた渋沢少年が、江戸で勉学を志し、国を憂いたのはある意味当然のこと。
彼は農業より勉学への思いを募らせるようになりました。
渋沢の志に反対だった父は「農閑期ならば」という条件つきで許可します。
かくして渋沢は、漢学者・海保漁村の塾、千葉周作の千葉道場へ、出入りするようになるのでした。

渋沢栄一/wikipediaより引用
ここで注目したいのは、必ずしも【勉学】や【剣術】を学ぶことだけが目的ではないというところです。
幕末の人物は、立場や思想の差はあれども、こうした塾や道場に出入りし、そこで活発に交流しました。
言わば人物の交流にこそ価値があったとも言え、いち早くそれを見抜いた渋沢は積極的に関わっていきます。
将来的には国際性に目覚める渋沢も、幕末に青年期を送り、己を研鑽していったのですね。
かくして典型的な熱血青年の一人となった渋沢は、文久3年(1863年)頃には【攘夷】を目指すようになり、幕府への不満を【行動】で示そうとするようにまでなります。
計画はこうです。
【渋沢の襲撃計画】
・家の蓄えを密かに持ち出し、武器を収集
・高崎城を乗っ取り、そこから横浜外国人居留地を襲撃
「城を乗っ取る」という第一の関門からして至難の業に思えますように、これに待ったをかけたのが、誘いを受けた尾高長七郎でした。
渋沢のイトコである尾高は【坂下門外の変】に参加後、逃げて来ていました。

坂下門外の変で襲われた安藤信正/wikipediaより引用
尾高は頭に血が上った渋沢を説得します。
どんなに内密であっても、幕府の目は届く。そんなことをして、本当に国は変わるのか?
そう諭されると、渋沢も我に返ります。
計画は取りやめ、とりあえずは【お伊勢参り】に行くとして西日本へ逃れ、ほとぼりを冷ますことにしました。
一橋家に仕え、幕臣、そしてパリへ
とはいえ、単身西日本で暮らすにはいささか不安があります。
そんなとき、ちょうどよいツテがありました。
江戸遊学中のことです。
渋沢はその優秀さのお陰で、一橋家用人・平岡円四郎に仕えないか?と声をかけられていたのです。
このころの一橋家当主は、後の15代将軍・徳川慶喜。
京都の治安を守る【禁裏御守衛総督】として、その地におりました。

徳川慶喜/wikipediaより引用
武士になることを喜ぶどころか、幕府批判をしていた渋沢栄一としては複雑な心境です。
とはいえ水戸徳川家といえば、薩摩藩島津家と並んで幕政改革を幕府に迫った、改革勢力でもあります。
特に藤田東湖は、幕末有数の思想家として全国の藩士からも人気の存在でした。西郷隆盛らが強く影響を受けたことでも知られておりますね。
水戸徳川家は、将軍継嗣問題で敗北したとはいえ、政治改革を期待される勢力でもあったのです。
しかし、同時にここが、一橋家の幕末での難しい立ち位置です。
渋沢は一橋家に仕え、財政改革を進言します。
幕藩体制は、後期ともなると綻びが生じ、渋沢の育った関東はその弊害が大きい地域でした。
最下層の身分である渋沢の献策を、一橋家では素直に取り入れました。
・木綿を買い取って上方で販売すること
・年貢米の売買手段を見直し、高級米を灘で酒造業者に販売すること
・備中で硝石を採取すること
次第にその見識の正しさは、一目置かれるようになっていきます(第一次長州征伐には出陣したものの、戦闘には参加しておりません)。
しかし、ここで思わぬ事態が起こります。
慶喜が将軍となってしまったことです。
パリ万国博覧会を見学してきてくれない?
テロ・クーデターまで起こそうとしていた幕府に、仕える立場の幕臣になってしまう。本人も悩み、実家で農業をしようかと思ったほどであったとか。
そんな折、重大な転機が訪れます。
慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会を見学する徳川昭武のお供をしてくれないか?
幕府から、そんな依頼が舞い込んだのです。

徳川昭武/wikipediaより引用
「よし、パリだ!」
断る理由などありません。
が、我々としてはちょっとツッコミたくなりませんか?
「おいおい、攘夷思想はどこにいったのか?」
渋沢は、よく言えば好奇心旺盛であり、悪く言えば立場をコロコロ変える人間です。
幕末でも、そういう柔軟で積極的な人物は、現実を知るや攘夷から国際派へいとも容易くシフトしていきました。
その典型例と言えましょう。
渋沢は、パリに着くと、いきなり断髪を敢行します。
髷を落とした姿の写真を夫人・千代に送り、「情けなき姿」と彼女を嘆かせたほど。
これには弁解して「郷にいれば郷に従えだから」と言い訳を書き送っております。

左(1866年)と右(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用
ベルギー国王のトップセールスに驚き
渋沢はやりくりに長けていました。
片言のフランス語で銀行制度を勉強し、逗留するホテルも格下げして節約に励んだほど。
銀行、新聞、水道……社会システムの数々に、渋沢は驚きました。
一番の驚きは、ベルギー国王・レオポルド2世自ら、
「これからは鉄の時代。貴国にも是非、我が国から輸入していただければ」
とトップセールスをされたことでした。

ベルギーのレオポルド2世/wikipediaより引用
将軍が自ら商売をするだろうか?
これからは商業の時代が来る?
士農工商が身についた渋沢からすれば、それは世界がひっくり返るような衝撃でしょう。
しかし、このレオポルド2世がのめり込んだビジネスには、今日に至るまで禍根を起こした悪例もあります。
帝国主義、植民地、グローバルビジネスは、明るい面だけではなかったのです。
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そして帰国した渋沢を待ち受けていたのは、崩壊した江戸幕府でした。
他の幕臣同様、徳川慶喜のいる静岡で暮らすこととなったのです。
明治政府には人材が必要なんだ! しかし……
さて、そんなわけで始まった明治政府は前途多難でありました。
江戸っ子は、こんな狂歌を残しております。
「上からは明治だなどというけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む」
いやいや、それは負け惜しみでしょ――とは言い切れないものがあります。
岩倉遣欧使節団の留守中に、内政はガタガタ。
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岩倉使節団(左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通)/wikipediaより引用
政治だけでも手一杯なのに、他の要素はもう追いかけられない。
農業、商業、工業、軍制改革、警察制度……数多くの改革を迫られる中、これぞ武士らしい!と乗り気で政府中枢が取り組んだのは、せいぜい軍事面あたりでしょうか。
警察制度も、薩摩藩では主流ではない川路利良が主導しました。
そんな川路のもとには、佐幕藩出身者の巡査もおりました。
例えば会津の佐川官兵衛とか。
新選組の斎藤一もその一人です。
商業は、薩長土肥ではない福井藩の由利公正に一任しておきながら、クビにするという無責任っぷり。
薩摩には商業のエキスパート・五代友厚がおりました。
しかし、彼ですら【戊辰戦争不参戦、先行不充分】という理由で登用されず、下野していたほどです
蝦夷地改め北海道は、日本一知識の豊富な松浦武四郎を起用するものの、藩閥政治とアイヌへの差別的扱いに絶望し、返上されるという始末。
そのせいで、入植者は苦しむこととなりました。

松浦武四郎/wikipediaより引用
北海道の開拓団は、いわゆる戊辰戦争の負け組を中心に送られており、明治政府の成立当初は、幕臣もお払い箱という気分であったかもしれません。
これは幕臣側も同様でして、食い詰めるか、誠意をもって迎えられねば、なかなか登用されようとしません。
江戸から明治という時代の変化で、振り落とされた人材は多かったことでしょう。
しかし、明治政府も困り始めます。
人材不足は如何ともし難いく、勝海舟や榎本武揚といった幕府の中心人物ですら頼らざるを得ません。
中には福沢諭吉のように、意地でも明治政府を突っぱねた人物もおりますが、そんな登用組の中に、渋沢栄一も含まれていたのでした。
運命を変えた大隈邸での一夜
経済面で政府を支えるエキスパートが欲しい――。
そんな中で、郷純造(ごう じゅんぞう)という幕臣出身の人物が、明治2年(1869年)、渋沢に目をつけます。
水際だったパリでの報告書を出した男が、「静岡商法会所」をすぐさま大改革し、組織したらしい。
渋沢の優れた才知により、静岡の商業は息を吹き返した。
これを国単位でやってみたらよい。
そうなったのです。
とはいえ、渋沢にヤル気なし。すぐさま辞めようと渋々引き受けました。
出仕直後の晩秋、渋沢は築地にある大隈重信邸を訪れました。ここで両者は夜通し語り合います。

大隈重信/wikipediaより引用
渋沢栄一は、大隈重信に向かって言いました。
「私なんかどうせ役に立ちませんし、静岡で実業界に入ります。だいたい、新政府はガタガタで、誰も何も知らない状態ではありませんか。これで新制度と言われたところで」
「きみの言うことはわかるがね、新政府はそりゃ誰も税制のことなんか知らない。ここから始めるものだから、万事未経験、当然だろう。ここから始めなきゃ!」
「慶喜公が蟄居しているのに、私ごときが出仕とは不忠です」
「きみは代々の幕臣ではないだろう。それに王政復古は、慶喜公の願いでもある。元家臣が朝廷に出仕するとなれば、誇りとなっても恥にはならんだろう」
そして、大隈からとどめの言葉が繰り出されました。
「これからの国づくりは、もう思想や立場じゃない。高天原に八百万の神が集うようなものだ!」
現代人からすればちょっとピンと来ないかもしれません。
要するにマーベルヒーロー勢揃いの『アベンジャーズ』状態だということでしょう。
一説によれば、渋沢は自分の考えた制度を取り入れることを条件としたとも。このあたりからも、渋沢の性格やポリシーが見えてきます。
福沢ほど武士としての思想はありません。
幕府を批判しながら、幕臣となる。
攘夷を志しながら、パリに魅了されて髷を切る。
そして政府に不満がありながら、出仕する。
自分のアイデアを受け入れてくれるのであれば、どこでもいい。自分のアイデアこそ、守るべきもの。
そんな性格が見えてきます。
富国か? 強兵か?
明治4年(1871年)、渋沢は制度取調御用掛、枢密権大使となります。
その課題は山積みでした。
◆貨幣制度改革
→金と銀本位制度が入り混じるものを、円・銭・厘に統一
◆銀行制度導入
→アメリカのナショナルバンク・アクト導入する「国立銀行条例」制定
◆株式会社導入マニュアル制定(『立会略則』『会社弁』)
こうした経済重視の政策は、政府に理解されにくいものでした。
というのも、軍備拡張を進めたいという思惑が強くあり、明治政府の首脳部には理解されないものがあったのです。
「富国強兵」という言葉は、明治政府の一致した政策であると言う説明がなされます。
これがそう単純なことでもなければ、一致した意見でもありません。
富国(=経済)か?
強兵(=軍事)か?
意見は常に競い合っていました。
軍事費歳出を迫る側からすれば、出し惜しみするように思える渋沢は目の上のたんこぶに他なりません。
かくして明治6年(1873年)、井上馨とともに辞表提出、大蔵省退官に至るまでには、そうした対立構造があったのです。
この対立構造は、ついに維新から10年目で【西南戦争】に至りました。
下野して活躍、商業を牽引する
大河ドラマ『青天を衝け』では小栗忠順(武田真治さん)が登場し、残念なことに「ネジ」の印象だけ残して消えていきました。
実は彼こそ幕臣の中でトップの経済通として知られた人物。
明治政府は小栗の道筋を辿っただけ、と大隈重信も言っていたほどの才人でした。

小栗忠順/wikipediaより引用
しかし、戊辰戦争の混乱に巻き込まれて殺害され、経済に通じた人材は現実に残されていない。
そこで注目されたのが渋沢。
在野に下っていながらも政府の伊藤博文とは昵懇であり、民間の立場から経済活性化に取り組んでいます。
同年には第一国立銀行総監役として、銀行創設に歩み出し、開行に至りました。
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次に取り組んだのが製紙業。
日本初の製紙会社「抄紙製紙(現・王子製紙)」は、明治7年(1874年)に渋沢の発意による創設でした。
これがなかなか軌道に乗らず、赤字を抱えて渋沢は苦労を重ねたとされます。
このパルプの躍進のひとつが、「西南戦争」による新聞ブームというのも、皮肉な話です。
「大阪紡績(現・東洋紡)」も、なかなか軌道に乗りません。
こうした紡績の普及は、洋服といった服飾文化の変遷だけではなく、軍服需要が貢献したというのも、皮肉といえばそうかもしれません。「富国強兵」とは両輪とみなせるわけです。
渋沢が関与した産業は、500以上とも言われ、ざっと見ただけでも膨大なものがあります。
金融、製紙、服飾、肥料、ホテル、ガラス、ガス、セメント、ビール、製糖、劇場、汽船、慈善事業、関東大震災復興……ありとあらゆる分野に着手。
彼が関与した代表的な企業名をあげてみましょう。
・日清汽船会社
・日本鉄道会社
・両毛鉄道会社
・北海道炭礦鉄道会社
・京都織物会社
・北海道製麻会社
・東京帽子会社
・日本精糖会社
・明治製糖会社
・札幌麦酒会社
・東洋硝子会社
・浅野セメント会社
・石川島造船所
・東京人造肥料会社
・東京瓦斯会社
・東京電燈会社
・東京株式取引所
・帝国ホテル
渋沢の商業はじめとする分野での活躍はケタ外れ、あまりに莫大なものです。
明治33年(1900年)になると男爵、大正9年(1920年)には子爵を授けられているのも、納得のいく躍進ぶりです。
なお男爵とか子爵とか、華族の仕組みについては、以下の記事に説明がございます。
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論語と算盤、道徳経済合一説
明治42年(1909年)、古希を迎えた渋沢は、多くの役員職を返上しました。
彼がそのあと尽力したのは、慈善事業と国際協調路線です。飛鳥山に作られた彼の自宅には、大勢の外国人訪問者がおりました。
渋沢がもてなしたのです。できるところから、国際交流をしていたのでした。
◆日米友好への取り組み
→渋沢の晩年には、反日運動が高まりつつありました。これに胸を痛めた人々もおります。青い目の人形と呼ばれた人形交換の背景には、宣教師ギューリックの提案に応えた渋沢がおりました。
◆日中友好への取り組み
→日清戦争を経ていたものの、誠心誠意を持って尽くせばわかりあえるはずであると、対中援助を説きました。
◆東京養育院
→江戸から東京になったあと、街には行き場所を失った幕臣、旗本、浪人や行き倒れの人々がおりました。ロシア皇太子来日にあわせて街を美化する過程において、収容する施設が必要となりました。この「東京養育院」に、渋沢は関わっています。
◆女子教育推進
→成瀬が関わり、広岡浅子が設立した日本女子大学校長を務めています。
◆歴史書編纂
→歴史を残すことにも、強い関心を持っています。彼が最も強い思い入れがあったのは、徳川慶喜でした。
稼ぐだけではなく、国際協調と平和、慈善事業、教育、文化、歴史……様々なものに還元したい。それが渋沢の考え方でした。
そんな思想を支えたのは、「論語と算盤」と呼ばれる、「道徳経済合一説」というものでした。
成功してのち、彼は繰り返しこのことを周囲に語っています。
※ただし『論語』については当時流行った『ポケット論語』からその流れに乗ったような節があり、自伝の話を鵜呑みにするのは危険な印象もあります
五代友厚が「大阪商工会議所」を設立したように、明治9年(1878年)には東京に「商法会議所」を設立。
新しい国づくりのために、粉骨砕身していました。
◆仁義道徳
→正しい道理の富でなければ、その富を永続することはできない
◆公益第一
→国家の富に還元できるか。そのことを考えること
これが彼の考え方とされます。
重視しておきたいのが、儒教道徳が根底にあることです。
彼と同年代、幕末を生きて明治を作り上げた人々は、儒教を信奉していました。
山縣有朋は、西洋流の道徳が広がりすぎることを懸念し、【教育勅語】にいかに儒教道徳を取り入れるか、腐心したものです。

山県有朋/国立国会図書館蔵
近年、中国への反発のあまり、中国由来のものを何でもかんでも否定する動きがあるものです。
万が一、本気でそんなことを考えたら、必ずや矛盾の壁にぶつかることでしょう。
なぜなら渋沢はじめ当時の政治家の多くが、根底に儒教を持っていたのです。
そして昭和6年(1931年)11月11日。
飛鳥山で眠るように穏やかな最期を迎えた渋沢栄一。
経済について考え続けた一生でした。
享年92。

晩年の渋沢栄一(手前中央)/wikipediaより引用
歴史人物評価と紙幣の顔の難しさ
日本屈指の経済人――。
一万円紙幣にふさわしい渋沢も、他国から見るといささか評価は異なってきます。
◆渋沢栄一の新紙幣、韓国紙が批判「経済侵奪の張本人」(→link)
韓国では、渋沢が電力会社の社長を務めたことがある上、伊藤博文との親交厚かったことから、非難の声が上がりました。
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こうした議論は世界共通のものである点は、認識しておいた方がよろしいかと思います。
実は、日本も例外ではありません。
かつて伊藤博文が紙幣に採用された際は「こっだ札、使ってらんね!」と会津の人々が激怒したという話もあります。
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イギリスの英雄であり、ナチスドイツ勝利の立役者として何度も映像化されているウィンストン・チャーチル。
彼もインドはじめ旧イギリス植民地、そして母国からも批判される人物です。
チャーチルは、人類史に残る人為的な大量死「インドの飢饉」にも関与しているのですから、反発は当然でしょう。
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映画公開時にインドから抗議があったとして、イギリス人がそれに血相を変えて怒るのか? という話なんですね。
イギリスの紙幣は君主の肖像画ですが、もしこれがチャーチルになったら、大激論となることでしょう。
前述の通り、渋沢の功績は、日本政府の歩みと一致しています。
その日本政府の歩みが、朝鮮半島の人々にとって苦痛や屈辱に満ちたものであれば、反発は仕方のないところではないでしょうか。
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しかも、渋沢は植民地時代に朝鮮半島でも紙幣として流通していたのです。
彼は、よい意味でも、そうではない意味でも、当時の規範から逸脱していない人物でもあります。
確かに、その理想は、素晴らしいものでした。
ただ、実践が伴っていたかどうか……。
実は明治時代は、「自己責任論」の源流とも言える「通俗道徳」思想が根付いた、過酷な時代でもあります。
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明治政府の歪み――。
それが労働問題というカタチであらわれた土地の代表が北海道です。
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もしも渋沢の提唱する理想通りの社会であれば、小林多喜二は別のテーマを選んでいたのかもしれません。
女性遍歴もそのひとつ。
北里柴三郎もなかなかのものですが、渋沢はそれを凌駕します。というのも、当時それはステータスシンボルでもあったものでした。
その悪しき代表例として、伊藤博文もおります。
旧1万円札となる福沢諭吉は、こうした漁色には激怒し、問題視しておりました。
渋沢が願っていたアメリカと中国との平和共存。
それも日露戦争後の狂騒の中では、顧みられることがなくなっていきました。
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こうした批判は、近代という時代を扱うからには、どうしてもつきまとうものです。
そういう意味では、
・樋口一葉
・野口英世
・新渡戸稲造
・夏目漱石
たちは、無難な線をいっていたと思います。
福沢諭吉は女性関係はともかく「脱亜入欧」が引っかかるかもしれないわけでして。
では、現代の道徳観と照らし合わせた人物ならば誰が適任か?
抑圧された人々のために立ち上がり、政治からは距離を置いていた――そんな人物はいかがでしょう?
アメリカ新紙幣のハリエット・ダブマンが、この参考となるでしょう。
ダブマンは奴隷解放に尽力した黒人女性です。
あるいはいっそ、人物をやめるとか。近代をやめるとか。世界ではそういう国も存在します。
ウクライナのウラジーミル1世は、血腥い覇王じみた前半生であるとはいえ、その功績から紙幣に採用されております。
いっそ織田 信長紙幣ならばよいかも……そんなことも妄想してしまいます。
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紙幣が変わったことで、世界と比較して、いろいろと考えてみるのもおもしろいかもしれませんね。
見ようによっては、新紙幣全員が日本近代史の暗部と、未解決の解決を見せてくれる役割を果たしていると言えなくもありません。
彼らの目指した社会の先に、私たちは今生きていると言えるのでしょうか?
お札や大河ドラマを機に、そのことを考えてみてもよいかもしれません。
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【参考文献】
井上潤『日本史リブレット 渋沢栄一』(→amazon)
宮本又郎『日本の企業家 渋沢栄一』(→amazon)
土屋喬雄『人物叢書 渋沢栄一』(→amazon)
『国史大辞典』
青天を衝け/公式HP

















