渋沢栄一/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代

渋沢栄一 激動の生涯92年をスッキリ解説!若い頃は高崎城乗っ取り計画も

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新紙幣一万円札の顔となる渋沢栄一

一般的には、500以上の企業設立に携わってきた近代きってのビジネスマンとして知られますが、実は若いころ「テロも計画したことがある」元幕臣だったのをご存知でしょうか。

旧一万円札・福沢諭吉と比べると物騒極まりない話ながら、実は両者の間にはいくつか共通点があります。

・元幕臣
・留学経験者

こうした肩書等だけでなく、幕末においては国のために奔走し、明治新政府成立後は世を儚んでいた――そんな生き様まで似ております。

それがなぜ、近代資本主義の父とまで呼ばれるようになったのか?
渋沢栄一の歴史を生誕から見て参りましょう。

 

天保生まれの幕末青年

天保11年(1840年)、渋沢栄一は武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に生まれました。

父・市郎右衛門、母・エイの長男。
家業は農家で、養蚕と製藍も兼営していました。

意外かもしれませんが彼が生まれた天保の関東は、すでに混乱が始まっていた地域です。

詳しくは以下の記事に譲りますが、要点だけ説明しますと……。

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一般的に、嘉永6年(1853年)に黒船がやってきた社会不安から治安が悪化したという印象がありますが、実はそれよりも数十年早く、制度疲労を起こして社会が荒れていたのです。
幕末は、荒れるべくして荒れた、と申しましょうか。

渋沢栄一の故郷は江戸から20里(80キロ)という立地です。
舟運が盛んで、河岸には問屋・蔵が立ち並び、労働者や旅客の泊まる宿場は絶えず賑わっておりました。

江戸からの情報と、商業が盛んな場所であったことは、彼に大きな影響を与えたことでしょう。

渋沢家は、当時の典型的ともいえる関東の豪農でした。
苗字帯刀を許されていて、分家も多い。当然、資産もある。

父の市郎右衛門は、そんな一族でも分家「東ノ家」にて誕生。
あまりに優秀だったため、本家「中ノ家」再興のために迎えられるほどの秀才でした。

渋沢当人も父親の才を受け継ぎ、花開かせたといえるでしょう。
彼ら一族の製藍は、信州上田(長野県)にまで販路があるほど広範囲で営まれておりました。

幕末~明治期において。
渋沢家のように、武士ではない階級から人物を輩出した例は少なくありません。

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要は、各藩の武士だけでなく、あらゆる階層で活発な動きはあったということです。

 

幕府は許せない! 攘夷だ、しかし……

そんな環境&時代に生まれた渋沢少年が、江戸で勉学を志し、国を憂いたのはある意味当然のこと。
彼は農業より勉学への思いを募らせるようになりました。

渋沢の志に反対だった父は「農閑期ならば」という条件つきで許可します。

かくして渋沢は、漢学者・海保漁村の塾、千葉周作の千葉道場へ、出入りするようになるのでした。

ここで注目したいのは、必ずしも【勉学】や【剣術】を学ぶことだけが目的ではないというところです。

幕末の人物は、立場や思想の差はあれども、こうした塾や道場に出入りし、そこで活発に交流しました。
言わば人物の交流にこそ価値があったとも言え、いち早くそれを見抜いた渋沢は積極的に関わっていきます。

将来的には国際性に目覚める渋沢も、幕末に青年期を送り、己を研鑽していったのですね。

かくして典型的な熱血青年の一人となった渋沢は、文久3年(1863年)頃には【攘夷】を目指すようになり、幕府への不満を【行動】で示そうとするようにまでなります。

計画はこうです。

家の蓄えを密かに持ち出し、武器を収集。
高崎城を乗っ取り、そこから横浜外国人居留地を襲撃。

「城を乗っ取る」という第一の関門からして至難の業に思えますように、これに待ったをかけたのが、誘いを受けた尾高長七郎でした。

渋沢のイトコである尾高は「坂下門外の変」に参加、西日本から逃れてきていておりました。
頭に血が上った渋沢を説得します。

どんなに内密であっても、幕府の目は届く。
そんなことをして、本当に国は変わるのか?

そう諭されると、渋沢も我に返ります。
計画は取りやめ、とりあえずは【お伊勢参り】に行くとして西日本へ逃れ、ほとぼりを冷ますことにしました。

 

一橋家に仕え、幕臣、そしてパリへ

とはいえ、単身西日本で暮らすにはいささか不安があります。
そんなとき、ちょうどよいツテがありました。

江戸遊学中のことです。
渋沢はその優秀さのお陰で、一橋家用人・平岡円四郎に仕えないか?と声をかけられていたのです。

このころの一橋家当主は、後の15代将軍・徳川慶喜です。
京都の治安を守る「禁裏御守衛総督」として、その地におりました。

武士になることを喜ぶどころか、幕府批判をしていた渋沢栄一としては複雑な心境です。
とはいえ水戸徳川家といえば、薩摩藩島津家と並んで幕政改革を幕府に迫った、改革勢力でもあります。

特に藤田東湖は、幕末有数の思想家として全国の藩士からも人気の存在でした。
西郷隆盛らが強く影響を受けたことでも知られておりますね。

水戸徳川家は、将軍継嗣問題で敗北したとはいえ、政治改革を期待される勢力でもあったのです。

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しかし、同時にここが、一橋家の幕末での難しい立ち位置です。

渋沢は一橋家に仕え、財政改革を進言します。
幕藩体制は、後期ともなると綻びが生じ、渋沢の育った関東はその弊害が大きい地域でした。

最下層の身分である渋沢の献策を、一橋家では素直に取り入れました。

木綿を買い取って上方で販売すること。
年貢米の売買手段を見直し、高級米を灘で酒造業者に販売すること。
備中で硝石を採取すること。

次第にその見識の正しさは、一目置かれるようになっていきます(第一次長州征伐には出陣したものの、戦闘には参加しておりません)。

しかし、ここで思わぬ事態が起こります。
なんと、慶喜が将軍となってしまったのです。

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パリ万国博覧会を見学してきてくれない?

テロ・クーデターまで起こそうとしていた幕府に、仕える立場の幕臣になってしまう。
これには本人も悩み、実家で農業をしようかと思ったほどであったとか。

そんな折、重大な転機が訪れます。

慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会を見学してきてくれないか?
幕府から、そんな依頼が舞い込んだのです。

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「よし、パリだ!」
断る理由などありません。

が、我々としてはちょっとツッコミたくなりませんか?

「おいおい、攘夷思想はどこにいったのか?」

渋沢は、好奇心旺盛な人物です。
幕末でも、そういう柔軟で積極的な人間は、現実を知るや攘夷から国際派へいとも容易くシフトしていきました。

その典型例と言えましょう。
船旅と洋食を共に楽しんでいます。

「コーヒーは苦いと思うどころか、さわやかな気分になる」と書き残すほどでした。

渋沢は、パリに着くと、いきなり断髪を敢行します。

髷を落とした姿の写真を夫人・ちよに送り、
「情けなき姿」
と彼女を嘆かせたほど。
これには弁解して「郷にいれば郷に従えだから」と言い訳を書き送っております。

左(1866年)と右(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用

渋沢はやりくりに長けています。
片言のフランス語で銀行制度を勉強し、逗留するホテルも格下げして節約に励んだほど。

銀行、新聞、水道……社会システムの数々に、渋沢は驚きました。

一番の驚きは、ベルギー国王・レオポルド2世自ら、
「これからは鉄の時代。貴国にも是非、我が国から輸入していただければ」
とトップセールスをされたことでした。

将軍が自ら、商売をするのだろうか?
士農工商が身についた渋沢からすれば、それは世界がひっくり返るような衝撃でしょう。

商業時代が来る!
そうどれほど沸き立ったことでしょうか。

このレオポルド2世がのめり込んだビジネスには、今日に至るまで禍根を起こした悪例もあります。
帝国主義、植民地、グローバルビジネスは、明るい面だけではなかったのです。

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そして帰国した渋沢を待ち受けていたのは、崩壊した江戸幕府でした。
他の幕臣同様、徳川慶喜のいる静岡で暮らすこととなったのです。

 

明治政府には人材が必要なんだ! しかし……

さて、そんなわけで始まった明治政府は前途多難でありました。

江戸っ子は、こんな狂歌を残しております。

「上からは明治だなどというけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む」

いやいや、それは負け惜しみでしょ――とは言い切れないものがあります。

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政治だけでも手一杯なのに、他の要素はもう追いかけられない。

農業、商業、工業、軍制改革、警察制度……数多くの改革を迫られる中、これぞ武士らしい!と乗り気で政府中枢が取り組んだのは、せいぜい軍事面あたりでしょうか。

警察制度も、薩摩藩では主流ではない川路利良が主導しました。

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そんな川路のもとには、佐幕藩出身者の巡査もおりました。

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商業は、薩長土肥ではない福井藩の由利公正に一任しておきながら、クビにするという無責任っぷり。

薩摩には商業のエキスパート・五代友厚がおりましたが、彼ですら
戊辰戦争不参戦、先行不充分】
というしょうもない理由で登用されず、下野していたほどです。

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北海道の開拓団は、いわゆる戊辰戦争の負け組を中心に送られており、明治政府の成立当初は、幕臣もお払い箱という気分であったかもしれません。
これは幕臣側も同様でして、食い詰めるか、誠意をもって迎えられねば、なかなか登用されようとしません。

江戸から明治という時代の変化で、振り落とされた人材は多かったことでしょう。

しかし、明治政府も困り始めます。
人材不足は如何ともし難いく、勝海舟や榎本武揚といった幕府の中心人物ですら頼らざるを得ません。

中には福沢諭吉のように、意地でも明治政府を突っぱねた人物もおりますが、登用組の中に、渋沢栄一も含まれていたのでした。

 

運命を変えた大隈邸での一夜

経済面で政府を支えるエキスパートが欲しい――。
そんな中で、郷純造(ごう じゅんぞう)という幕臣出身の人物が、明治2年(1869年)、渋沢に目をつけます。

水際だったパリでの報告書を出した男が、「静岡商法会所」をすぐさま大改革し、組織したらしい。
渋沢の優れた才知により、静岡の商業は息を吹き返した。

これを国単位でやってみたらよい。

と、そうなったのです。
とはいえ、渋沢にヤル気なし。すぐさま辞めようと渋々引き受けました。

出仕直後の晩秋、渋沢は築地にある大隈重信邸を訪れました。
ここで両者は夜通し語り合います。

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渋沢栄一は、大隈重信に向かって言いました。

「私なんかどうせ役に立ちませんし、静岡で実業界に入ります。だいたい、新政府はガタガタで、誰も何も知らない状態ではありませんか。これで新制度と言われたところで」
「きみの言うことはわかるがね、新政府はそりゃ誰も税制のことなんか知らない。ここから始めるものだから、万事未経験、当然だろう。ここから始めなきゃ!」
「慶喜公が蟄居しているのに、私ごときが出仕とは不忠です」
「きみは代々の幕臣ではないだろう。それに王政復古は、慶喜公の願いでもある。元家臣が朝廷に出仕するとなれば、誇りとなっても恥にはならんだろう」

そして、大隈からとどめの言葉が繰り出されました。

「これからの国づくりは、もう思想や立場じゃない。高天原に八百万の神が集うようなものだ!」

アカデミックドレスを着用した大隈重信/wikipediaより引用

現代人からすればちょっとピンと来ないかもしれません。
要するにマーベルヒーロー勢揃いの『アベンジャーズ』状態だということでしょう。

一説によれば、渋沢は自分の考えた制度を取り入れることを条件としたとも。
このあたりからも、渋沢の性格やポリシーが見えてきます。

福沢ほど、ガチガチの武士としての思想はありません。

幕府を批判しながら、幕臣となる。
攘夷を志しながら、パリに魅了されて髷を切る。
そして政府に不満がありながら、出仕する。

自分のアイデアを受け入れてくれるのであれば、どこでもいい。自分のアイデアこそ、守るべきもの。
そんな性格が見えてきます。
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