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【東京養育院】
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「養育院廃止論」との壮絶な戦い
養育院が社会に果たす役割が大きくなってくるにつれて、運営にかかる費用も増えていきました。
収容者も増えたことで上野の施設では手狭になり、明治14年(1881年)には千代田区外神田和泉町にある旧藤堂邸の東側に移転するなど、規模も拡大。
ところが……。
翌年の東京府議会で突如「養育院廃止」の議論が巻き起こり、廃止方が優勢になっていくという事態に直面します。
当時の養育院は東京府の管轄下にあり、地方交付税を受けながら運営していました。
府議会で廃止と決まれば、養育院が一瞬のうちに資金難へと追い込まれることは明らかです。
なにより廃止の理由も酷いものでした。
「慈善事業はなまけた人間を生み出すだけで、何の利益にもならない。こんなものに多額の経費をかけるなんてお笑いだ」
現代でもよく耳にする「自己責任論」に近いものですね。
渋沢はこの結論に憤り、養育院の調査をすべく組織調査委たちを個別に訪問。必要性を懸命に訴え、委員たちにも現場の悲惨な状況を見学させました。
結果、委員たちは大いに同情し、ひとまずその年は廃止を免れます。
しかし、廃止論者たちはここで強硬手段に出ました。
翌年の府議会では調査委も設けず強引に廃止を決定し、1~2年程度での閉鎖を求められてしまったのです。
収容されているのは自力で生きていけない人たちです。もしも施設を閉鎖したら、野垂れ死になってしまうでしょう。
そこで渋沢は当時の府知事・芳川顕正(よしかわ あきまさ)への直談判を試みました。
「あまりに無情で残酷な処置だ。もし結論を変えないなら、今後は府から独立して経営していかなければならない」
しかし、言うは易し行うは難し。
個人ではとても賄いきれない運営資金をどう調達するか。
彼はリストラを敢行し、かつ最低限の収容者だけを残したうえで、あるアイデアを出しました。
東京府が、養育院の建っている土地を売却しようとしていることに着目し「この土地はもともと七分積金で手に入れたもので、東京府のものではない。よって、土地の売却で得た代金は養育院に戻されるべきだ」と持論を展開。
その上で、有志からの寄付を合計していけば、独自の運営も可能であろうと試算を示したのです。
当時の東京府議会関係者からすれば「あのヤロウ、余計なことを思いつきやがって」という気持ちだったでしょうが、土地の売却代だけで養育院を手放せるならそれほど悪い話でもありません。
結局、渋沢の提案は府議会の承認を得て実行に移されることになりました。
現在は「東京都健康長寿医療センター」に
こうして強引に再出発した東京養育院。
寄付金頼りの運営が世間に知れると、大衆の同情を買いました。
結果、寄付金は膨れ上がり、明治20年(1887年)頃には基金が20万円(戦前基準企業物価指数に換算すると現在の1億円以上)を突破します。
さらに、鹿鳴館などの完成によって西洋の文化を理解し始めた貴婦人たちのが「チャリティー・バザー」を開き、その収益のすべてが養育院の運営資金に回されました。
こうして経営は安定していきますが、そこには渋沢なりの「お金を出させるテクニック」がありました。
近年の研究では、彼が勧化帳(寄付者名簿)やチャリティー・バザーを通じて紳士淑女たちの「自尊心」をくすぐり、よく言えば競い合わせ、悪く言えば見栄を張り合わせて、お金を出させる環境を作り上げたと考えられています。
養育院は、明治22年(1889年)に「府」から「市」へと体制を一新した東京市に経営権が移り、施設の移転や分院化を進めてさらに規模を拡大していきました。
彼が実業家として培った経験やスキルがなければ、養育院の発展はなかったでしょう。
しかし、そうした資金面での援助だけでなく、実際に足を運んで収容者たちと交流することも欠かしませんでした。
数多くの企業や団体に関わり多忙を極めていたにもかかわらず、どんな時でも最低月一回は板橋に移っていた本院に子どもたち用のお菓子をもって訪れ、時間の許す限り面談を重ねたといいます。
結局、渋沢は91歳で亡くなるまで約50年も院長を務め、養育院の発展に生涯をささげました。
★
渋沢の残した養育院は時代の中で形を変え、現代では高齢者医療のリーディングホスピタル「東京都健康長寿医療センター」として知られています。
2000年に東京都の養育院条例が廃止されたため「養育院」の名前は消えてしまいましたが、彼の信念は今もなお病院に息づいていることでしょう。
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文:とーじん
【参考文献】
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典』(→amazon)
渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』(→amazon)
渋沢栄一/守屋淳『現代語訳渋沢栄一自伝:「論語と算盤」を道標として』(→amazon)
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon)
「病院の歴史」東京都健康長寿医療センター(→link)