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【渋沢栄一と女子教育】
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新島八重のような女性もいる
渋沢栄一の残した言葉を読むと、明治政府の思想も共に見えてきます。
儒教由来もあるでしょうが、西洋の影響も強く、明治政府上層部の考えが反映されたもので、彼らが主張する「男尊女卑の根拠」として、まず身体能力を挙げられます。
女性は力が弱い。ゆえに戦場では役に立たない。巴御前のような例外はいるとはいえ、性質は柔くて、力も弱いから仕方ないのである――。
武家由来であると規定しましたが、古今東西ありきたりな理屈ですね。
しかし大河ファンであれば、首を傾げてしまうのではありませんか?
巴御前まで遡らなくとも、それこそ会津戦争での八重のように強い女性はおりました。
明治以降も八重はともかく強気で、おなごの柔らかい心はない。徳冨蘆花が『不如帰』で会津つながりで大山捨松を貶したときには、炎上騒動が起きるほどです。
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八重は、それだけ性質も腕力も際立っていました。
それを渋沢栄一が知らないとも思えませんが、無視することはできます。
実際、渋沢栄一および明治政府の女性観には偏りがあることは、当時から指摘されていたことでした。
以下のようなものです。
女性の役目とは、良妻賢母となることである。
男子は働き、女子は家庭を守る。これが自然のさだめであり、おのおの分を守るべし。
貞操、従順、優美、緻密、忍耐こそが、女子の美徳である。こうした女子の美徳を伸ばすべきであり、それこそが教育だ。
女性の社会進出は、女性の美徳を失いかねない。
社会に出るのではなく、家庭を守り抜き完璧な美しいものとすべきだ。女性の活躍とは、家庭内において尽くすことである。
こうした明治政府の意向を踏まえると、渋沢栄一の女子教育観が、その枠を出ていないことは明白でしょう。
いくら資金を捻出して名誉的な女子校校長職を務めたからといって、果たして女性を応援したと言えるかどうか? 現代の視点から見ると、むしろ否定されるべきものです。
それに対し当時から「異議あり」と言える人物はいました。
お札の顔として渋沢と共に並ぶ津田梅子です。
津田梅子の女子教育とは
『青天を衝け』には、薩摩藩の五代友厚も重要な人物として登場しました。
そんな五代と近い人物が黒田清隆です。この黒田の発案で、日本初の女子留学生がアメリカに向かいます。
アメリカで彼女らは称賛されました。
「なんて聡明なのだ! 彼女らは日本の宝となるにちがいない!」
そんな絶賛のもと、新聞記事になることもありましたが、帰国したら酷い現実が待っていました。
「アメリカかぶれ娘め。売れ残りだ。嫁に行け」
要するに留学されることは考えていたけれども、受け入れ態勢を整えていなかったということ。明治政府に梯子を外されたのです。
藩閥政治の影響もあるでしょう。
薩摩閥と長州閥は呉越同舟で、足の引っ張り合いを続けています。
薩摩閥が思い付いた女子教育を、ダンスができるレディが欲しい長州閥がどこまで真剣に考えたか。
その答えは津田梅子の人生に反映されています。
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伊藤博文のもとで政府は女子教育に奔走し始めたものの、梅子はほどなくして失望。
彼女を理解し、手を差し伸べたのは、留学生仲間やアメリカ人のアリス・ベーコン、イギリス人のナイチンゲールといった海の向こうの人々でした。
津田梅子が掲げたような、女性自身が己の力を伸ばしたいとする女子教育に、渋沢栄一は至っていません。
彼にとって女子とは、あくまで明眸皓歯の持ち主であり、外で働く自分のような男を癒し、子を産み育てる存在でした。
あくまで美女か良妻賢母としてのみ、想定していたのです。
渋沢栄一の伝記には、女子教育に尽力したと過大評価されるものも多いですが、そこは慎重に見なければならないでしょう。
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