こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【清少納言】
をクリックお願いします。
なんせ清少納言・紫式部・上東門院小馬命婦の三人とも生没年すら不明ですので。
清少納言自身は、晩年に父・元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたといいます。
-
和泉式部は親王や貴族を虜にする小悪魔系?恋多き女流歌人の生涯とは
続きを見る
文献上に彼女が出て来る最後の記述は、兄弟の致信が寛仁元年(1017年)に殺害されたとき、同宿していたというものです。
その後、治安・万寿年間(1021~1028年)あたりに亡くなったのでは……と考えられています。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
枕草子は中関白家や宮中などの段が興味深い
さて、清少納言といえばやはり、その著作である枕草子に触れないわけにはいきません。
第一段はほぼ全ての日本人が暗記させられた文章のひとつでしょう。
また、第一四六段「うつくしきもの」や、第二八四段「雪の高う降りたるを」(香炉峰の雪)など、他にも有名な段がいくつかありますね。
歴史上からすると、「枕草子」は清少納言の好みを書いたいわゆる「ものの段」よりは、中関白家や宮中の様子などを書いた日記的な段に注目したほうが良い気がします。
例えば、
・第二〇段では清涼殿の春の一コマ
・第七三段には細殿という清少納言たちの日常生活の場
・第一〇〇段には定子の妹・原子が尋ねてきたときのこと
などが実に鮮やかに描かれています。
そのとき誰がどんな着物を着ていたか、どんな会話がされていたのか、そのままわかる本は実に貴重です。
しかし、特に嫌いなものを並べあげている段などは、いっそ見苦しいまでに悪口の羅列で、読んでいて気分が悪くなる人も少なくないでしょう。
古典の専門家の方は「清少納言は明るくて面白くてスバラシイ」という意見が大多数なので、そういう段も褒めていますが……。
第一段の「春は曙」など、いかにも文学的才能があふれている美しい表現をできる人が、どうしてこうも口汚く他人や物事を罵るような文章を残したのかが不思議です。
まあ、「枕草子は元々人に見せるつもりで書いたものではない」と清少納言自身があとがきにあたる部分に書いているのですが。
彼女の性格は? 頭脳明晰だけど近寄り難し!?
清少納言について一言でまとめるとするなら、「才女」だけで括るよりも「インテリかつヒステリック」といったほうが近い気がします。
なぜかというと、清少納言の逸話はほとんどが定子をはじめとした中関白家の人か、彼女がやりこめた男性との話だからです。
枕草子の中でも
「いけないこととはわかっているが、人の悪口ほど面白いものはない」
「男をやりこめてやるのは実に愉快だ」
と書いていますしね。
いつの時代も、本当に優れた人は異性や同性、年齢や身分の上下問わず認められるものです。
その点、清少納言への苛烈な批判といえば紫式部ですけれども、彼女以外の同時代の人から見ても「清少納言は確かに頭がいいけれど、あんまり親しくお付き合いしたい人ではないね」と思えたのではないでしょうか。
それに、「父の名を辱めないように歌はおおっぴらに読まない」と言ったことがあるのに、漢詩の知識でしょっちゅう男を言い負かそうとするのは何だか矛盾するような、しないような。
イヤだと言っていた和歌も【小倉百人一首】に選ばれちゃってますし……。
なんだか辛辣になってしまいましたが、個人的には紫式部のほうが好きなのでご勘弁下さいm(_ _)m
これから枕草子を読んでみたいという方は、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス版がダイジェスト(→amazon)になっていて、とっつきやすいかと思います。
あわせて読みたい関連記事
-
紫式部は彰子や道長とどんな関係だった?日記から見る素顔とその生涯
続きを見る
-
藤原定子はなぜ自ら髪を切った?一条天皇の愛に支えられた儚き一生
続きを見る
-
実は出世の見込みなかった藤原道長の生涯 なぜ最強の権力者に?
続きを見る
-
藤原彰子(道長の娘)日本で最も権力を有した男の娘は幸せだったか
続きを見る
-
和泉式部は親王や貴族を虜にする小悪魔系?恋多き女流歌人の生涯とは
続きを見る
【参考】
国史大辞典「清少納言」
角川書店『枕草子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)』(→amazon)
清少納言/wikipedia