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【紫式部日記】
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源氏物語が広く読まれていた証拠も
生後50日目の【五十日(いか)の祝い】の席では、紫式部にまつわる有名なエピソードがあります。
当時随一の文化人・藤原公任が女房たちのいるあたりにやってきて、
「このあたりに若紫はおられませんか」
と問いかけたという話です。
このことから「敦成親王の産まれた頃には、源氏物語が貴族社会で広く読まれていた」と考えられています。
もちろん完成はしていなかったでしょうし、源氏物語はどこから書き始められたのかが明確にわかっていません。
当時は幼い紫上が登場する「若紫」の帖しかなかった可能性や、公任がそこしか読んでいなかった可能性もあるでしょう。
この五十日の祝いでは道長もかなりゴキゲンな感じで酔っており、彰子や倫子に対して、こんな戯れ発言をしています。
「中宮(彰子)の父として私はなかなかのものだし、私の娘として中宮もまずくない。母(倫子)も良い夫を持ったと思っているだろう」
倫子は素面だったのか、気恥ずかしさが勝ってか、席を立ってしまっています。
道長は「しまった」と思ったようで、慌てて
「部屋まで送らないと、母上がご機嫌を悪くされるからな」
と、彰子に言い訳しながら倫子を追いかけたそうです。
なんだか尻に敷かれているような感じですが、道長が出世できたのも、倫子の父・源雅信や母・藤原穆子の力が多大に影響を与えていたので、そういう一面があったのでしょう。
この前年には道長と倫子の間に末娘・嬉子が産まれていますし、プライベートでも仲良さそうですが。
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源氏物語を冊子本に
しばらく経つと、彰子が宮中に戻るための支度が始まりました。
その中で、紫式部は彰子の本づくりを手伝ったと記しています。
そこに至るまでの経緯は不明ですが、このときまでに源氏物語の豪華装丁版を作ることになっていたらしく、それを作る場面です。
源氏物語の原稿を能筆家に清書してもらい、それを製本していたとのこと。
紙を切り揃えて糸で綴じる本のことを「冊子本」といいます。
当時は「巻子本」という巻物のような形式の本が主流だったので、かなり気合が入っていたことがわかる話ですね。
また、まだ清書に出していなかった物語の原稿を道長が勝手に持っていってしまったことも書かれており、作者の手元に草稿が残ったため、紫式部はこう惜しんでいます。
「文を整えた原稿を持っていかれてしまったから、手元に残っている草稿だけが伝わって、この物語は残念な評価を受けることになるだろう」
しかし、結果は皆さんご存じの通り、源氏物語は後世に至るまで人気爆発。
その後、紫式部は一時宿下がりをし、物語や世の中、かつての友人たちに関する物思いで気を沈ませています。
同僚の大納言の君や他の女房たちと手紙をやり取りして、倫子からもこんな手紙が来ました。
「私が『ゆっくりしてきなさい』と言ったから、あなたは急いで宿下がりして長居しているのだと思っています」
紫式部はこれで気を取り直して、土御門第へ。
彰子は11月17日に内裏へ戻ることになり、紫式部はあまり仲の良くない”馬の中将”という女房と牛車に同乗することになり、ボヤいています。
「女房勤めはこういうところが嫌だ」
彼女の本音には、なんだか親近感が湧いてしまいますね。
内裏に着くと月が煌々と照っており、「顔を晒して歩かなければならないことに抵抗を感じた」とも。
旧暦の11月半ばは、現代でいえば12月下旬に差し掛かる頃です。
この日はとても冷えていたらしく、紫式部たちの局(部屋)を訪れた貴族たちが
「今夜は寒いので明日出直しましょう」
と言ってとんぼ返りしていったとか。
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