刀伊の入寇

馬に乗る女真族を描いた一枚/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』の時代に起きた異国の襲撃「刀伊の入寇」で見える貴族政治の限界

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対外危機意識まで「平安」になるリスク

果たして朝廷は、対外脅威を真剣に捉えていたのか?

当時の政府を見ていると、あまりに怠惰というしかありません。

かつての中央には国防意識もありました。

防人】(さきもり)です。はじめは東国、のちに九州から徴兵された兵士が、大陸や半島から襲来する敵に備えていたのです。

しかし10世紀初頭に唐が滅び、前半に新羅も消えると、日本の危機意識は低下。

防人はなくなり、九州では在地の武士団が形成されてゆきました。

そして11世紀初頭に起きる【刀伊の入寇】は、重要なターニングポイントといえます。

藤原隆家という中央貴族のもとで、九州の在地武士団が結束して戦う、そんな構図があるのです。

唐や新羅という重石が無くなれば、女真族が活発化するのは自然なこと。

普通なら日本も対策を取らねばなりませんが、当時の朝廷は女真が高麗に朝貢していると認識――つまり女真は高麗に制御され、何か日本に災いが到来するような危機感はありませんでした。

それが甘い見通しだったのでしょう。

四方を海に囲まれた日本史は、対外関係を意識することで理解しやすくなります。

それは今も昔も変わらず、平安貴族が遊んでばかりだったとは決して思いません。

しかし、対外関係と、軍事防衛については、どうしたって緊張感に欠けていました。

 

寛仁3年 事件までの流れ

寛仁3年(1019年)、実際の事件が起こるまでのあらましを辿りましょう。

藤原道長に抵抗した三条天皇の時代が終わり、やってきたのが後一条天皇の治世。

道長の嫡男である藤原頼通が摂政・関白を務める時代です。

道長は病気がちになり出家し、藤原実資は眼病で視力を失いつつありました。

彼らにとって人生の秋が訪れ、満月か欠けてゆくような時代に、おそるべき事件は起きたのです。

このとき、九州には権帥(ごんすい)である藤原隆家がいました。

隆家は41歳。

本来ならば表舞台からは遠ざかった“過去の人”で、かつては叔父の道長と激しい政治闘争を繰り広げた人物でした。

 

隆家は道長の兄・藤原道隆の二男であり、清少納言の『枕草子』にも“やんちゃな貴公子”として登場。

若い頃はかなり血気盛んであり、それが仇となって花山法皇に誤射してしまう【長徳の変】を起こして但馬へ流されていたのです。

その後、政界復帰を果たしたとはいえ、もはや政治力を取り戻すには至らず。

姉の藤原定子と一条天皇との間に儲けた皇子が即位すれば、まだ逆転のチャンスはあったものの、道長の顔色をうかがうばかりの朝廷でそんなことは許されません。

結局、道隆の子たちは定子も含めて失脚。

隆家が九州へ出向いた頃は、定子や兄の藤原伊周だけでなく道長に抵抗していた三条天皇も崩御していて、隆家は九州でひとり虚しさを感じていたとしてもおかしくない時代です。

このときは目の治癒のため太宰府権帥とされていました。

実質、都から遠い地へ飛ばされていたも同然で、いわば“終わった存在”だったのが隆家という人物でした。

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大型船と強弓の襲来

事件の始まりは寛仁3年(1019年)3月28日のことです。

刀伊の船50艘あまりが対馬に突如あらわれ、殺人や放火などの残虐行為に及びました。

老人や子どもは斬り捨てられ、牛馬も殺されてしまう。

そして抵抗できない者4~5百人が捕縛されると、船に載せられました。

本土で防戦だ――と迎え撃つ日本側には、地の利があっても非常に苦しい状況です。

とにかく沿岸線が広い。

次は九州に上陸する、と予測はできても具体的な確定まではできませんので、どうしたって兵力は分散させられてしまう。

そんな絶体絶命の中、敵の首をあげて武功を武功を稼ぐツワモノもおりました。

海賊襲来は4月7日に太宰府に伝えられ、藤原隆家もここで危機を知ったことでしょう。8日には応戦部隊が派遣され、強い風雨の中、防戦に挑むこととなりました。

とはいえ、兵器や装備面で劣ることも確かです。

敵の弓矢は強力で、盾を破壊するほどの威力だとされます。

日本の弓矢の発達は独特です。中国では標準的な弩は廃止され、剛力を要求される独自の形状となっています。相手は和弓とは異なる武器を装備していたのでしょう。

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船も、日本海を越えられるだけの大型船ですから、手強い。

中国のような大河がない日本で、戦闘用の舟が発達するのは戦国時代以降のことです。

それまでは小さくシンプルな構造だったことが、【壇ノ浦の戦い】や【元寇】を描いた絵で確認できます。

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