花魁が客をもてなす宴会に並ぶ豪華な「台の物」。
蔦重、源内、須原屋の三名が居酒屋で食事をとる場面は、卓も椅子もなく、畳に直接飲食物を置く。
そうした食事の中でも、序盤、最も頻出するのが吉原の「つるべ蕎麦」ですね。
蔦重と次郎兵衛が世間話をする場面はお約束であり、ここで話に混ざる店主が、六平直政さん演じる半次郎です。
吉原には彼の営む「つるべ蕎麦」が実際にあったのかどうか?
そう疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、これが実在していました。
江戸の蕎麦屋は、江戸っ子人気No.1のファーストフードであり、実際によく食べられ、吉原にも欠かせない存在だったのです。
ではなぜ、蕎麦がさほどに人気を獲得できたのか。
うどんではなく蕎麦だった理由は?
江戸の食文化と共にその歴史を振り返ってみましょう。

蕎麦屋の出前が犬に足を噛まれて盆をひっくり返し、頭から蕎麦をかぶる武士とそれを笑う町人/歌川広重『江戸名所道化盡 九 湯島天神の台』/東京都立中央図書館蔵
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吉原大門手前にある「つるべ蕎麦」
「つるべ蕎麦」は、ドラマで描かれる通り大門手前の五十間道、蔦屋の向かいにありました。
縄のれんをかけてあり、代々の店主は「増田半次郎」を名乗る。
吉原の大門は、駕籠に乗ったまま通過することはできず、駕籠が止まり、客が降りる辺りにつるべ蕎麦と蔦屋があるわけです。
蕎麦で小腹を満たし、それから蔦屋で『吉原細見』を買う。
するとそこへ店の者が声をかけてくるという流れがあった。
まさに劇中でもそんな場面が幾度か出てきましたね。

こちらは深川江戸資料館に展示されている江戸時代後期の「風鈴蕎麦」の屋台/wikipediaより引用
吉原名物を土産にしよう
大河ドラマ『べらぼう』では、吉原の人気が燻っているとされます。
アクセスが悪い。お高く止まっていて割高と思われてしまう。吉原者は倫理観がない。そう差別的に見下されることも往々にしてある。それはその通りです。
一方で華やかなイベントが開催され、足を踏み入れるだけでウキウキワクワクしてしまう、レジャーランドとしての一面もありました。
夏の恒例行事である「玉菊燈籠」見物で賑わうタイミングで、うつせみと新之助が足抜けをした展開もありました。さらにその二年後には三十日間にもわたる「俄祭り」が開催され、うつせみと新之助が“神隠し”のように大門から消える展開もありました。
劇中の「俄」は、禿(かむろ)や芸者が舞踊っておりました。
他の祭りは男ばかりで、朋誠堂喜三二がぼやいたようにむさ苦しい。さらには何かと喧嘩も起こりがちで、実は老若男女が安心して楽しめるわけでもありません。
運営側に女性参加が多い吉原の祭りは、実のところ幅広い客層にとって治安がよいとも言える。外さないイベントでもありました。
現代人がテーマパークで土産を買うように、当時の人々もそれを楽しむ。
吉原の店で買ったお菓子。
吉原の店で食べた料理の話。
土産にはもってこいであり、吉原名物としては、以下のようなものがありました。
『吉原細見』:吉原のガイドブック
袖の梅:酔い覚まし、二日酔いに効果ありとされる
甘露梅:青梅を紫蘇ででくるみ、砂糖漬けにした菓子。新年贈答品の定番であり、自家製のものを出す遊女屋もあった
浮世絵:吉原独自というよりは、江戸土産の定番。春画も含めた浮世絵を買って帰ることが地方から来た旅行者の定番。吉原に浮世絵を置くのは観光客狙いとして理にかなっているといえる
誰も彼もが女郎と馴染みにならなくてもよかったのです。
たとえば落語の演目でも有名な『紺屋高尾』。生真面目で遊び一つ知らない染物屋の奉公人である久蔵。彼は堅物で有名であるものの、友人がある日強引に観光目的で吉原に連れて行きました。
その花魁道中で高尾太夫の姿を見て一目惚れするところから奇跡の物語が始まります。
江戸の古典では、このようにお堅いはずの男が、観光目的で吉原に立ち寄ったところからはじまる話も多いものでした。それだけ定番ルートだったわけです。
四季折々のイベントや花魁道中を見ながら、甘露梅を買い、つるべ蕎麦で小腹を満たす――ドラマで蔦重が手掛けているような女郎の錦絵を買ってもいい。
吉原はそんな過ごし方ができるため、女性の観光客も訪れるものでした。

『東都新吉原一覧』二代目歌川広重/東京都立中央図書館蔵
江戸には、一日で千両動く場所が三箇所あるとされ、芝居小屋と魚市場、そして吉原もその一つに数えられたものです。
女郎屋以外の産業もあって、それを目当てにくる観光客だけでなく、そこで働く人も大勢いた。
ゆえに大金が動くのでした。
蕎麦は江戸っ子のソウルフード
吉原へ出かけ「つるべ蕎麦」で腹を満たす。
「おぉ、蕎麦も食ってきたよ」と語ることは、江戸っ子にとって粋だったでしょう。
現在でも、東日本は蕎麦、西日本はうどんを好むとされます。
うどんは中国から伝わった食べ物とされ、遣唐使のころに伝えられた「饂飩」が起源であり、蕎麦が現在のような形になったのはずっと後のこと。
当初は、蕎麦粉を湯で練る「そばがき」が食されていました。

「そばがき」とは、こんな感じの料理です
それが戦国末期から江戸初期にかけて、現在の「蕎麦切り」のような食べ方を考案。
4代将軍・徳川家綱の時代に洗練されてゆき、このころ新たな調味料として開発された味醂(みりん)や醤油、鰹節をつけ汁として食べる方法が編み出されました。
当時としてはまさに最先端であり、お江戸で生まれた新たな味となるのです。
江戸という都市は、徳川家康が入府して以来、若い男衆の土木工事によって作られてゆきました。
そのため男女比が不均衡で、独身男性が多く、必然的に町中には外食店やファストフードが多くなる。
江戸の産み出した最先端グルメは人々の心を掴み、蕎麦屋が江戸で最も多い外食店となるまでにさほど時間はかかりません。
ささっとかき込める立ち食い蕎麦。
ついでに酒も呑める店。
江戸は蕎麦屋だらけになっておりますので、『べらぼう』の舞台でもあちこちに店があっても何の不思議もありません。
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