寛仁元年(1017年)5月9日は三条天皇の命日です。
大河ドラマ『光る君へ』では居貞親王(いやさだしんのう)時代から藤原道長と熾烈な権力争いを演じ、ご記憶に新しい方も多いでしょう。
劇中では、一条天皇の陰に追いやられていたかのような存在でしたが、それも皇位の流れを見るとご納得されるかもしれません。
花山天皇の弟だった三条天皇は、以下のように
花山天皇(968年生まれ)
│
一条天皇(980年生まれ)
│
三条天皇(976年生まれ)花山天皇の弟
│
後一条天皇(1008年生まれ)一条天皇の子
治世が長く続いた一条天皇と、道長の孫である後一条天皇に挟まれ、とにかく辛い立場に追いやられたのです。
実際、いくつかの興味深いエピソードを残しながら崩御されていった、三条天皇とはどのような人物で、いかなる事績があるか。
その生涯を振り返ってみましょう。

三条天皇/wikipediaより引用
生い立ち
三条天皇の先代は一条天皇です。
『光る君へ』では塩野瑛久さんが演じ、藤原定子や藤原彰子を妻にしたり、紫式部を「日本紀の局」と評したりしたあの方ですね。
三条天皇は、一条天皇と親子兄弟ではありません。

一条天皇/wikipediaより引用
当時の皇室は大きく分けて【冷泉天皇系】と【円融天皇系】の2つの系統があり、以下のような順番で即位していました。
【冷泉天皇系】
62代 村上天皇
│
63代 冷泉天皇
|
65代 花山天皇(兄)―67代 三条天皇(弟)
【円融天皇系】
62代 村上天皇
│
64代 円融天皇
|
66代 一条天皇
|
68代 後一条天皇
冷泉天皇と円融天皇は、村上天皇を父とする同母兄弟ですので、兄と弟がそれぞれ自分の血統を繋げていったことになりますね。
「兄弟」で、しかも「皇室に2系統あった」となると、後年の両統迭立(南北朝)のように、ゴタゴタしそうな予感がするかもしれません。
しかし一条天皇の即位時には、そこまで物騒な話にはなっていません。
ドラマでも注目されましたように【寛和の変】によって花山天皇が退位させられ、藤原摂関家にとって都合の良い一条天皇が皇位に就いたためです。
花山天皇は『光る君へ』で本郷奏多さんが演じていた方ですね。

花山天皇の出家を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用
母は兼家の娘・超子だったが
三条天皇は、花山天皇の異母弟として貞元元年(976年)正月三日に誕生。
当初の名前は「居貞親王」でした。
居貞の読みは明確になっておらず、「いやさだ」「きよさだ」「おきさだ」などが候補とされています。
実はこちらの母も藤原兼家の娘・藤原超子でしたので、摂関家にとっては一族とみなせる血統です。
元服も寛和二年(986年)7月16日に兼家の屋敷で実施。

藤原兼家/wikipediaより引用
居貞親王の外見は兼家に似ていたらしく、非常に可愛がられていたとか。
先に年下のいとこ・一条天皇が即位したことにより、居貞親王はその皇太子(東宮)に立てられました。
しかし兼家が永祚二年(990年)7月2日に亡くなり、母・超子もこれに先立つ天元五年(982年)にこの世を去っていたため、居貞親王は母方の支援が受けられなくなってしまいます。
この時代、アテにできるのは基本的に”直系の年長者”に限られます。
母方がダメなら父方……といきたいところですが、父・冷泉上皇は精神的に不安定とされていたため頼りに出来ず、祖父の村上天皇はそもそも居貞親王の誕生より前に崩御していました。
つまり、居貞親王は宮廷内で孤立同然の状態にあったのです。
この時点では東宮という立場で落ち着けていたので、さほど大きな問題ではなかったのですが……時が経つにつれて表面化していきます。」
東宮時代
居貞親王は、周囲の人々とはうまくやっていたようです。
正暦四年(993年)5月5日に、現代では「東宮居貞親王帯刀陣歌合」と呼ばれている歌合を実施。
帯刀陣とは東宮の警備をする”帯刀の舎人”の詰め所のことです。
この歌合については記録があまりなく、大江嘉言以外の歌人は名が伝えられていません。
伝えられている歌の数も多くはないので、東宮の近辺でこぢんまりと行われた端午の節句の催しといったところでしょうか。
大江嘉言の歌は次のとおり。
君が代は 千世に一たび ゐる塵 白雲かかる 山となるまで
【意訳】殿下の代が千年に一度降る塵が積もり積もって、雲がかかるほど高い山になるまで続きますように
この歌合の最初に詠まれたもので、いかにもめでたそうな感じですよね。
『蜻蛉日記』の作者として知られる藤原道綱母もこの歌合に参加したといわれています。

浮世絵にも描かれた『蜻蛉日記』岳亭春信:画/wikipediaより引用
ここから4年後の長徳三年(997年) に藤原道綱が東宮大夫になり、さらに寛弘四年(1007年)には道綱が東宮傅に任じられていますので、この歌合をきっかけにして居貞親王と道綱の繋がりができたのかもしれません。
東宮大夫とは、東宮の家政担当で、東宮傅は教育係です。前者が秘書で、後者が家庭教師みたいなイメージで良いかと。
道綱母は長徳元年(995年)頃に亡くなったとされているため、息子が重職に就いたことを祝えませんでしたが、草葉の陰で喜んだことでしょう。
ドラマでも二人がお酒を酌み交わすシーンがありましたね。
また、この間の寛弘二年(1005年)頃に紫式部が藤原道長に召し出されています。
『源氏物語』の評判を聞き及んでのこととされますので、居貞親王のもとにも彼女の噂は聞こえてきていたかもしれませんね。
最初の妻は兼家の娘・綏子
時系列が少々前後しますが、元服・立太子と来れば、次にやらなければならないのは結婚。
子供が作れるようになるまでまだ時間がかかる一条天皇よりも、年上の居貞親王のお相手が先に決まるのは当然の成り行きでした。
しかし……居貞親王は、立場上の理由以外のところでも家族関係に恵まれないというか、本人は悪くないのに周りで色々起きるという状況に遭遇します。
最初のお相手は、あの藤原兼家の娘・藤原綏子。
居貞親王の母も、兼家の別の娘ですので、血筋からいえば叔母と甥の結婚ということになります。平安貴族あるあるですね。
綏子の母はあまり身分が高くなかったため、夫婦生活に関する教育係のような立ち位置だったと思われます。
綏子は居貞親王の元服翌年、永延元年(987年)頃に入内。
しかし前述の通り、入内してから数年で兼家が亡くなったため、居貞親王は綏子のもとにはあまり通わなくなりました。
それが辛かったのか、綏子は長徳年間に居貞親王と同じく村上天皇の皇孫である源頼定と密通してしまいます。
これにより綏子はいよいよ宮中にいられなくなり、長く宿下がりすることになります。
姉の藤原詮子や弟の道長が綏子に同情したようで、その後面倒を見ていました。

藤原詮子/wikipediaより引用
すると綏子は、長保3年(1001年)ごろに頼定との子供を懐妊。
この時点でも彼女は立場としては尚侍のままだったので、居貞親王は道長に命じて真偽を調べさせます。
そして事実らしいとわかると、居貞親王は頼定に対しては激怒する一方で、綏子については不遇さを強いた形になっていたため同情したとか。
元はといえば、もう少し綏子を妻として尊重していれば、彼女が不貞に走ったり、長く宿下がりをしたりといったこともなかったでしょうしね……。
この時期だと東宮大夫が道綱=綏子ともきょうだいなので、そちらからも何か口添えがあったり、逆に居貞親王がどうすべきか相談したりといったこともあったのかもしれません。
次の妻は藤原済時の娘・娍子
次は正暦二年(991年)に入内したのが藤原済時の娘・娍子。
済時も藤原北家の一員ではありましたが、兼家や道長とは異なる系統であり、後見としては強いとはいえません。
娍子と居貞親王は4歳しか変わらず、また美人で箏(そう・琴の一種)が上手かったなどが気に入ったのか、居貞親王にとっては糟糠の妻といった関係を長く保ちました。
二人の間には4男2女が誕生。
この子供たちの中に後々物議を醸す人がいるのですが、それは後ほど。
さらに正暦六年(995年)には、当時関白だった藤原道隆の娘・藤原原子が東宮妃として入内しています。
当時、一条天皇の中宮だった定子の妹です。

枕草子絵詞/wikipediaより引用
当時、最も有力な後見を持つ姫ということになりますが、居貞親王と原子は一回り以上離れていたと考えられているため、すぐ深い仲になるということはなかったと思われます。
原子は『枕草子』で「淑景舎の女御(君)」として登場していて、居貞親王の后妃の中では比較的イメージが湧きやすい人でもあります。
清少納言は、原子の可愛らしさと、もう少し大人びた定子の様子を対比して描いており、姉妹らしい姉妹といった雰囲気の二人だったようです。
その段では一条天皇が早く皇子をもうけようと躍起になっているらしき様子も描かれているのですが、正暦六年時点で居貞親王には娍子との間に敦明親王が生まれていたので、焦る気持ちがあったのかもしれません。
とはいえ、当時の一条天皇は15歳、居貞親王は19歳ですから、そう焦る話でもなかったのですが。
むしろ、そこまで焦らせる藤原道隆らが大人げないように見えます。
吹き荒れる疫病の嵐
長徳元年(995年)、藤原道隆が長年患っていた糖尿病と思われる病気で死亡。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用
続いて他の公卿たちも疫病でバタバタと亡くなっていきます。
疫病の正体は、痘瘡(天然痘)だと推測されています。
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その中で生き残ったのが、道隆長男の藤原伊周や藤原道長など、有力者はほんの数名。
幸い居貞親王の近辺にこの病は降りかからなかったようですが、娍子の父・済時が同じ年に亡くなり、娍子の立場は一段と弱くなりました。
とはいえ、原子も父を亡くしていますので、この時点ではどっこいどっこいといったところ。
むしろ妃たち同士の上下関係よりも、「居貞親王の後見者がいない状態が続いた」ことが一番の問題だったと思われます。
道隆の後を継いで関白となった藤原道兼もあっという間に亡くなると、一条天皇は母后である東三条院・藤原詮子の言を聞き入れて、道長を内覧(天皇への書類を先にチェックする人)に任じました。
詮子としては関白にして欲しかったようですが、道長はこの時点まで重職についていなかったので、ひとまず内覧にしたようです。
伊周には東宮傅を与えていますが、道隆の生前からよろしくない振る舞いが多かった彼を次期天皇の教育係にするというのはどういうことなのか……。
案の定、伊周は、あっという間に【長徳の変】を起こして自ら政治生命を絶ってしまいます。

藤原伊周/wikipediaより引用
これによって原子の立場はより一層弱まりますので、居貞親王としても気分は良くなかったでしょう。
一方で、娍子との仲は変わらず良好で、息子の敦明親王が袴着の儀を迎えたり、第二皇子の敦儀親王が生まれたりしました。
しかし、朝廷では道長の存在感が強まるばかりです。
公卿たちは居貞親王に近づくことを控えてるようになり、行啓(親王の外出)にお供したがらないといったことが頻発します。
道長が長女の藤原彰子を一条天皇に入内させてからはなおのこと。
居貞親王としては、道長と敵対するつもりがなくても、とにかく味方は欲しい。
どうにか味方を増やそうと、蔵人頭・藤原行成に筆を贈ったり、逆に書の手本を求めたりなどしていました。
道長との関係
藤原道長としても、いたずらに居貞親王と敵対したいワケでもありません。
むしろ良好な関係を築きたい理由がありました。
この時点では、皇統が一条天皇で続くか、居貞親王に移るか不明ですので、どちらに転んでも良いように振る舞いたかったのが本音でしょう。
居貞親王が道長と良好な関係だったことを示す逸話として、「梅の枝の話」が伝えられています。

三条天皇/wikipediaより引用
それは以下の通り。
長保二年(1000年)2月3日、居貞親王は東宮で弓と蹴鞠の遊びを催し、そこに弟の親王たちや道長などの公卿を集めました。
遊びが終わって道長が帰ろうとしているところへ、居貞親王が梅の花が咲いているのを見つけ、
「このような見事な梅をそのままほうっておくわけには行くまい」
といい、道長が手ずから一枝折って捧げます。
すると、居貞親王が次のように上の句を詠み
「君折れば 匂ひ勝れり 梅の花」
道長が下の句を繋げました。
「思ふ心の 在ればなるべし」
通して詠むと、こうなります。
君折れば 匂ひ勝れり 梅の花 思ふ心の 在ればなるべし
【意訳】この梅の花は他の枝よりも美しく咲いている。君が思いを込めて折ってくれたからだろう
手折った人の心根が梅の花をより美しく見せるのだ……という歌で、状況を知らなければなんだか恋歌にも見えてしまいそうですね。
和歌が当時の貴族にとって素養であるとはいえ、こういった即妙さは普段の関係が良好でなければ成り立たないもの。
少なくともこの時点では、居貞親王と道長双方に「良い関係でいよう」という意思があったのでしょう。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
長保四年(1002年)8月には、原子が突如として重い病気により亡くなり、道長にとっては居貞親王に近づくハードルが一つ減ったともいえます。
道長としては、この時点で「居貞親王にも娘を入内させよう」と考えていたでしょうが、彰子が一条天皇に入内したばかりでもあり、しばらくは先送りされました。
また「原子の死は娍子の呪詛によるものだ」という噂も立っていたようです。
しかし道長が直接関係しておらず、居貞親王・娍子・原子それぞれが有力な後ろ盾を持っていなかったためか、そのうち噂は消えてゆきました。
おそらく、居貞親王が娍子を寵愛していたことに対し、原子周辺もしくは中関白家の関係者が言い出したのでしょう。
同時期には、藤原行成が愛妻を亡くしており、居貞親王は弔問の使者を遣わしています。
政治的な理由もあったでしょうが、似た境遇になったぶん哀れみも増したのではないでしょうか。
そうした気遣いに溢れた居貞親王ですが、周辺でのトラブルに巻き込まれやすい人でもあります。
居貞親王にとって最愛の妻・娍子には妹がいました。
彼女は居貞親王の弟・敦道親王の妻(北の方)となっていたのですが、敦道親王が長保五年(1003年)に和泉式部と深い仲になってしまった上、自邸に彼女を迎えてしまうのです。
これにより北の方は立場がなくなり、寛弘元年(1004年)に娍子のもとへ。
この件について居貞親王夫妻がどう思ったかはわかりませんが、「私の後ろ盾が弱いばかりに」と悔しい思いをした可能性は否定できません。
前述した原子の死去により、居貞親王の后妃は娍子のみという期間がしばらく続いていたため、夫婦でこの件を話し合うこともあったでしょう。
和泉式部はこの後、道長に召し出されて彰子に仕えることになるので、何かの折に名前を聞いていたとしたら、複雑な気持ちになったかもしれません。
一条天皇とはどんな関係だったのか?
さて、肝心要の一条天皇と居貞親王は、どんな関係だったのでしょうか。
お互いに気遣っていたと思われる逸話があります。
寛弘三年(1006年)の夏に、道長の屋敷で催される競馬(くらべうま)見物に、一条天皇が行幸することになりました。
一条天皇は
「東宮も見物にいらっしゃるだろうか」
と道長を通して誘いかけ、居貞親王が上機嫌で
「ぜひ」
と返し、席は別ながらも共に見物したことがあります。
競馬が終わった後は一条天皇が居貞親王を御前に呼び、酒食を賜ったとか。
年長者の居貞親王のほうが目下といういびつさはあったものの、血の繋がったいとこ同士でもありますので、親近感があったのでしょう。
一条天皇がなかなか皇子に恵まれないこと、居貞親王は後見が脆弱なことに悩んでいたでしょうから、お互いの境遇を思いやるような会話もあったのかもしれません。
このとき彰子が居貞親王を気遣ったという話もあります。
道長としても引き続き居貞親王に気を使っており、異母兄の花山法皇が崩御した後には、毎月、居貞親王のもとを訪れていた時期があります。

花山天皇/wikipediaより引用
そしてテコ入れのためか、寛弘七年(1010年)に道長は次女の妍子を、ついに居貞親王に入内させました。
妍子との年齢差は18、かつ居貞親王にとっては長子の敦明親王と同い年です。
道長のゴリ押しエピソードは多々ありますが、この件が一番キツイかもしれません。
『栄花物語』ではあまりの年齢差のため、居貞親王が妍子にかなり気を使って接していたと表現されています。
居貞親王の性格からすると、当たらずといえども遠からずといった感じがしますね。一条天皇も彰子の入内直後は似たような応対だったようですし。
道長も頻繁に居貞親王のもとを訪れるようになり、居貞親王としても
「良い関係を維持するためには、妍子との間に男子を得なければ」
と思ったようで、名実伴った夫婦関係を築いていきます。
36歳で即位して三条天皇に
明けて寛弘八年(1011年)、一条天皇が重病に倒れ、居貞親王が譲位を受けて三条天皇となります。
このとき既に36歳。
新たな皇太子には、一条天皇と道長の娘・彰子の間に生まれた敦成親王が立てられました。

敦成親王・五十日の祝儀を描いた『紫式部日記絵巻』/wikipediaより引用
こうなると道長としては、できるだけ早く三条天皇に退位してもらい、敦成親王を即位させて外戚の地位を確立したいわけです。
そして妍子にもできれば皇子を産んでもらい、敦成親王に万が一のことがあった際にも備えたい。
三条天皇もそれはわかっており、即位の翌年に女御の妍子を中宮にし、立場を重んじることを表明します。
しかしその一方で、長年連れ添ってきた娍子も皇后に立てました。
「道長に協力はするが、全て言いなりになるわけではないぞ」と示したかったのでしょう。
しかし結果としては、これが道長との溝を深めていくことになります。
さらに、健康問題が政治にも影響していきます。
三条天皇は東宮時代からたびたび病みつくことがあったのですが、即位後はさらに目や耳・鼻を病むようになったため、道長はこれをきっかけとして譲位への圧力を強めていくのです。
現実問題として、見たり聞いたりできなければ日常の政務や儀式にも支障がありすぎますし、妥当な意見でもあります。
病の理由については、現代でもよくわかっていません。
白内障や緑内障のように目そのものを病んだのか、あるいは糖尿病や動脈硬化などのように、別の病気が進行した結果なのか。
耳にも影響していること、ときに「水をかぶったら症状が良くなった」という記述が見られることなどからすると、いくつかの病気やストレス性の症状を併発していた可能性もありますね。
しかし三条天皇は、しばらく譲位を先送りにします。
あっちこっちの寺院に祈祷をさせたり、怪しげな医者や薬を試してみたり、自ら比叡山などに行幸したり、当時考えられていたありとあらゆる方法で病気に抗おうとしたのです。
トラブル続きの子供たち
三条天皇は、道長の懐柔策として皇女・禎子内親王を道長の息子・藤原頼通に降嫁させることを図りました。
禎子内親王は妍子の娘ですので、頼通にとっては姪との結婚ということにもなります。
道長としてはこの話に乗り気だったようですが、頼通は長年連れ添った隆姫女王が弱い立場になるのを嫌がり、首を縦に振りません。
さらに隆姫女王の父・具平親王が頼通の枕元で祟ったことで体調を崩したとされたため、この話は沙汰止みになっています。
三条天皇としても「長年連れ添った妻を思いやって」ということであれば、無理強いはできなかったでしょうね。
そんなこんなで苦悩する三条天皇でしたが、さらに子供たちの周りでも問題が起き始めます。
長子の敦明親王はたびたび暴力事件を起こすわ、娘の当子内親王は長和三年(1014年)から長和五年(1016年)まで斎宮を務めた後、藤原道雅(伊周の子)と密通するわ。
当子内親王については、さすがに三条天皇も激怒。
後者については斎宮の任期が終わった後なので問題視しなくてもよさそうなものですが、道雅が伊周の長子であることから先々の望みが薄く、また上皇の許可も得ていないことで怒ったのでしょう。
【長徳の変】の悪影響がこんなところにまで及んだわけですね。
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ちなみに当子内親王は斎宮時代に
「『内親王を斎宮にするとは志が深い。御代は18年続くだろう』という託宣がありました」
「伊勢には怪異がないので、父上の御代は長く続くでしょう」
などと書き送ってきたことがあり、元は仲の良い父娘だったのではないかと思われます。
情が濃いぶん怒りも強くなったのか……。
一方で、相変わらず三条天皇が優しい方だったことを伝えるエピソードもあります。
長和四年(1015年)5月、後宮のとある女官が物の怪に取り憑かれ、三条天皇の側仕えの子供に襲いかかるという事件がありました。
かなり強い力で殴ったり蹴ったりしたらしく、三条天皇はとっさにその子供を抱えてかばったのだそうです。
平安時代のような厳しい身分社会で、かついくらでも替えがきいたであろう子供を、至尊の地位にある方が身を挺してかばったのですから、かばわれた側は一層忠誠心を厚くしたことでしょう。
この件は「三条天皇に取り付いていた悪霊のしわざ」として処理され、女官は罰されずに済んでいます。
百人一首に選ばれた三条天皇の歌
こうして公私ともにトラブルが襲いかかった上に薬や祈祷の効果はなく、さらに”内裏(天皇の住まい)が炎上する”という不吉な事故が勃発。
三条天皇は譲位を受け入れざるを得なくなります。
道長に政務を主導させ、位に止まろう――そんな案も出しますが道長に拒否されてしまいました。
さらに道長は、新たな皇太子に外孫の敦成親王の擁立を図ると、三条天皇は最後の意地として
「長子の敦明親王を次の皇太子に立てること」
と言いつけ、ここでは道長が折れています。
そして譲位が決まった後、在位約五年という短い間の奮闘を振り返りながら、三条天皇は歌を詠みました。
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
【意訳】決して長生きしたいとは思わないが、もしそうなったとしたら、今宵の名月はいかに恋しく感じられる事だろう
百人一首にも採られている有名な歌ですので、ご存知の方も多いでしょうか。
かるたと凝視していると、なかなか歌の背景にまで意識が向きませんが、実はこんな孤独な闘いの末に詠んだものだったのです。
三条天皇の御製には他にも
秋にまた 逢はむ逢はじも 知らぬ身は 今宵ばかりの 月をだに見む
【意訳】私はまた秋に巡り会えるかどうかもわからないから、せめて今宵の月を目に焼き付けておこう
(詞花集97)
というものがあり、月に強い思い入れがあったこともうかがえます。
目を患っただけに、煌々と光る月がより恋しくなったのでしょうか。
三条天皇は譲位の後も寺院に行幸して回復祈願をしていましたが、それも虚しく、寛仁元年(1017年)4月に重い病を得て出家し、そのまま回復せず同年5月に41歳で亡くなりました。
道長の死後、孫の後三条天皇が頑張る
藤原道長は、三条天皇が亡くなった年に後一条天皇へも娘を嫁がせ、一つの家から三人の皇后を立てるというウルトラC(のゴリ押し)を達成。
そしてかの有名な歌を詠んだとされます。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
このとき道長は既に52歳。
「そろそろこの世からご退場いただいても構いませんのに」と思っていた人も多かったでしょうが、さらに10年ほど君臨し続けました。

紫式部と藤原道長(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)
晩年には(自分と)貴族達の極楽往生を願い、大規模な寺院の建築に力を注ぐと、周囲の貴族達はこぞって工事に協力したそうで。
朝廷に納めるはずのものを先に道長へ納めるほどだったといいますから、呆れてしまいますね……。
ここまでだと道長の圧勝に見えますが、実はそうとも言い切れないところがあります。
道長が亡くなってから6年後、禎子内親王の子で三条天皇の孫にあたる後三条天皇が即位したのです。
後三条天皇は母方から冷泉系、父方から円融系の血を引いており、穏便に皇統が統一されることにもなりました。
後三条天皇も約五年という短い間の在位ながら、その間に藤原氏の特権を没収するなどの改革を断行。
これにより財産の偏りが減り、藤原氏以外の貴族や庶民の生活がマシになったそうです。
もしかすると、お爺様の無念を晴らすという意味もあったのでしょうか。
代を越えてでも最終的に勝利するというのが、なんとも皇族や公家らしい結果といえるかもしれません。
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【参考】
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
繁田 信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典






