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【藤原実資】
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彰子に同情し人目も憚らず涙
このような調子で藤原道長に対して心中は強く反発しながら、表立って喧嘩をふっかけたりはしない藤原実資。
一方で道長にしても、対立は望んでいなかったようで、実資が何かをしてくれたときには礼儀正しく謝意を何度も伝え、礼品も惜しまず贈っています。
貴族の日記は、後世や子孫への啓蒙という面も強く、実資にしてみれば
「私の子孫がもし皇室の外戚になることがあっても、(道長一族のように)驕り高ぶることはないように」
と訓戒する狙いでもあったのでしょうか。
『小右記』での道長に対する態度はかなり厳しいものですが、その娘である彰子や、息子の藤原頼通にはやや好意的な書き方をしています。
彰子が寛弘五年(1008年)に行った大原野行啓の際は、あまりに豪華な行列に対して
「まるで天皇の行幸のようだ」
という批判は確かにしています。
しかし定子の出産については日記に記さず、彰子の入内前後については書いているあたり、本当は実資も彰子側の力が強まることは早々にわかっていたのでしょう。
実資は、一条天皇の崩御後、彰子が主催した法華八講にも参列しています。
彰子が喜んだことを伝え聞いて感動したとかで、なんだか実資は「前例を大切にしすぎて頑固なのに褒められると弱いタイプ」のようにも見えますね。
その後、伝言を聞いた実資がお礼として彰子の御所へ訪ねた際、彰子は
「故院の一周忌が終わり、部屋の様子が喪中のものから普段どおりに戻ってしまったのがなんとも寂しい」
と心の内を明かし、実資は人目も憚らず涙したとか。
これもロバート秋山さんにピッタリの号泣シーンが見られそうです。こうした一面を踏まえての起用だったのかもしれませんね。
史実の藤原彰子(道長の長女)はどんな女性?道長・式部・一条天皇との関係は?
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その後も藤原実資は、彰子の振る舞いに対し「賢后」と評しました。
入内直後はおとなしい少女だった彼女の成長ぶりが実資の記録から浮かんできますね。
ただし、彰子の信奉者とかそういった盲目的なものでもなく、源憲定からは以下のような相談を受け、内心ではかなり彼女に反発していました。
「皇太后(彰子)様から『娘を出仕させるように』と言われたのだが、私としては行かせたくない。
家長の俊賢殿は『出仕させよ』とおっしゃっていたのだが、どうすれば良いだろう?」
実資は、ここでも憲定に対して、事の是非を論じることはなく、道長時代と行動方針は変わっていません。
ちなみに憲定の娘(対の君)はこの後、いとこの隆姫女王に引き取られ、彼女の夫である藤原頼通(彰子の弟)の世話をしているうちに懐妊し、藤原通房を産むことになります。
彰子からは、特にクレームが入ったということもなさそうですので、丸く収まったのでしょうか。
頼通の送り込んだ美女に手を出しそうに……
藤原実資と藤原頼通は、ある程度軽口や冗談を言える間柄だったようで、『古事談』にこんな話があります。
実資は、気に入った女性がいれば、下女でも手を付けることがままあったそうです。
現代であれば大問題かもしれませんが、平安時代は問題なし。
それを知った頼通が、自分の下女の中から美女を選び、実資がよく下女に手を出している井戸へ向かわせました。
もちろん頼通は、実資に美女をやろうとしたわけではありません。
彼女にはこんな風に命じておきました。
「もしも実資殿に手を出されそうになったら、水桶を捨てて逃げるように」
そして美女が井戸へ行くと、案の定実資が手を出してきたため、水桶を投げ捨てて逃げたそうで、後日、訪ねてきた実資に対し、頼通が言いました。
「ところで、先日の水桶を返していただけませんか」
実資は真っ赤になって返事もできなかったとか。
頼通の父である道長よりも年上ですので、いい歳して下女に手を付けていることが恥ずかしくなったのでしょう。
日記やその他の逸話では堅苦しい人物に思える実資ですが、そういう一面もあったのですね。
ただし出典元の『古事談』は平安末期から鎌倉初期にかけて源顕兼(あきかね)が、皇室や貴族たちの下ネタなどを中心に過去の記録から編纂したもの。
信ぴょう性については微妙ですが、当時の生々しい雰囲気は伝わってくるものであり、ドラマの登場人物ですと清少納言や藤原道長、安倍晴明についての話も掲載されています。
興味を持たれた方は、上記の現代語訳版をご覧になられるとよいかもいしれません。
閑話休題。
藤原実資と藤原道長の関係について、もう少し見ておきましょう。
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