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長徳の変:失脚する伊周と隆家
軟弱どころか暴力上等!の貴公子たち。
こんな調子では、いつか大事件でも起こすのではなかろうか?
と思いきや、案の定、藤原伊周と藤原隆家の兄弟はやらかすことになります。
時は長徳2年(996年)――藤原実資のもとに、藤原道長からとんでもない知らせが届きました。
いわゆる【長徳の変】であり、例の花山法皇を相手に二人はやらかすのです。
【5W1H】でまとめる長徳の変
【When いつ】長徳2年(996年)
【Where どこで】故太政大臣・藤原為光邸
【Who だれが】藤原伊周、藤原隆家
【What 何を】花山法皇一行を相手に乱闘事件
【Why なぜ】恋愛がらみの勘違い→伊周はこの邸の三女、花山法皇は四女と通じていた。花山法皇が自分の相手に近づいたと誤解した伊周が先制を仕掛ける
【How どのように】矢を射かけたことを契機として争いに発展→花山法皇側の童子(当時は成人の儀をしていない者を称するため実年齢は不明)2名を殺害して斬首、首を持ち帰った
現代人でも驚愕してしまうこの事件、真相はあやふやなまま処理されてゆきます。
襲われた側の花山法皇も気まずかったからです。
出家の身なのに女性関係でトラブルを起こしたなんて、表沙汰にはできない。
首を持ち去られた童子より、自分の名声が大事だったのでしょうが、こんな失態を道長が見逃すわけもないし、検非違使だって黙ってはいられない。一条天皇だって看過しない。
家宅捜索が行われ、一年ほど後に藤原伊周と隆家の兄弟は左遷されました。
母である高階貴子は「我が子についていきたい」と泣き崩れたことで知られますが、冷静に事件のあらましを振り返ると、イキリ貴公子の自滅とも言えるわけです。
伊周や定子の母・高階貴子~没落する中関白家で彼女はどんな生涯を送ったのか
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道長暗殺計画
転落した兄弟にもチャンスはありました。
彼らの姉妹である藤原定子は一条天皇の寵愛を受け、その後、敦康親王(あつやすしんのう)が生まれています。彼が即位すれば、外戚として政界復帰ができる。
しかし、道長がそれを許すはずがない。
道長の娘である藤原彰子は第二皇子と第三皇子を産んでおり、その即位を盤石とすることで、伊周たちの復帰の芽を完全に摘んでおかねばならない。
いわば王手をかけた状態であり、これぞ道長お得意の権謀術数!のようにも見えますよね。
アチコチに罠を仕掛けて自らの権力を保持する――実際は、そこまで一方的な話でもありません。
日本最高の権力が絡む話である以上、道長のライバルにだって“強硬手段”はある。
でも、どうやって……?
寛弘4年(1007年)、藤原実資はおそるべき計画を耳にしました。
大和国金峰山に向かった藤原道長に向け、武士である平致頼(たいらのむねより)が、刺客として放たれているというのです。
伊周と隆家兄弟の差金とのことで、都中が騒然とし、道長のもとへ勅使も派遣されました。
するとその翌日、道長が無事に戻ってきます。
襲撃計画そのものが実行されなかったようです。
道長も身の危険を感じていたのか、十分な護衛をつけていたのでしょう。かくして暗殺計画の噂だけが都に残されたのです。
その後、道長と甥の権力争いは、藤原彰子を母とする敦成親王(のちの後一条天皇)の即位が確たるものとなることで、決着がつきました。
失意の兄・伊周は若くして亡くなり、弟・隆家は中堅貴族として無難な人生を歩みつつ、【刀伊の入寇】で博多に攻め込んできた外敵を撃退するという、素晴らしい功績を上げます。
受験勉強などで、この【刀伊の入寇】を知った方は
「中央の貴公子が手強い外敵を撃退した」
ということに意外な印象をお持ちだったかもしれません。
しかし、藤原隆家のオラつきぶりを知るといかがでしょう?
実は適材適所だったとも言えるのです。
道兼周辺に漂う鬱屈と不穏な空気
大河ドラマ『光る君へ』の第1回放送で、紫式部の母・ちやはを惨殺した藤原道兼。
あの殺人は創作ですが、彼は劇中に登場した直後から「何か、やらかしかねない要素」がありました。
貴公子同士の殺し合いはさすがにない。
しかし従者同士の殺害となれば往々にしてある。
藤原道兼自らが実行犯とならずとも、従者に「あの女を殺せ」と命じることは考えられなくもない。家が困窮していたちはやは、身分の低いどうでもよい存在に思われてもおかしくはありません。
従者が「道兼様」と諱(いみな)ではっきり呼ぶことも、ドラマならではの演出といえます。ああも堂々と名前で呼ぶことは考えにくいものです。
いずれにせよ道兼の意思による惨殺自体は、可能性としてゼロではなく、ドラマとしてはアリでしょう。
被害者がまひろの母であったからインパクトも凄まじいことになりましたが、その前に平安貴族の暴力性はもっと知られてもよいのではないか?と思います。
実際のところ、彼の周辺には不穏な計画があったことも伝わっています。
『古事談』にはこんな話が記録されているのです。
兄である道隆に追い抜かれた道兼。このままでは関白になれそうにない。
そこで彼に仕える武士・源頼信がこう考えました。
「いっそアイツ(道隆)をバラせば道兼様が関白になれるんじゃねえか」
「ちょ、待てよ」
と、ここで止めたのが、あの名高い源頼光です。頼信の兄にあたります。
「第一にヨォ、オメエ、ぜってーにしくじらねえでバラせる自信、あんのか? 第二にだ、殺ったところで道兼様が確実に関白になれるとは限らねえ。そして第三、殺し合いで関白になれるってんなら、道兼様もバラされるかもしれねえ。それを守り抜けるかって話よ」
なるほどな、兄貴は学があるぜ。
そう納得した源頼信は暗殺を取り止めましたが、結局それで正解でした。
道隆が病で亡くなり、道兼が念願の関白となったのです。しかし……。
道兼もその後すぐに流行病で亡くなり、結局、道長にお鉢が回ってきたのです。あまりに短い在位であったためか、道兼は「七日関白」とも称されたのでした。
史実では死因が不明である紫式部の母を、刺殺による死とした大河ドラマ『光る君へ』。
道兼自身はどんな死に方をするのか。こうなると注目度も高まって参りますね。
「表向きは病死」とは、時代ものでお約束の不審死ごまかしフレーズであり、それが活用されるかもしれません。
父の死後、道兼の遺児・藤原兼隆は、従兄弟たちとは異なり叔父・藤原道長に逆らわなかったためか、印象が薄くなっています。
だからといっておとなしいわけでもなく、藤原実資はこう記しています。
「兼隆様は自分の従者を平然と撲殺する……ましてや他人の従者には何をするのかわからない」
これは何も道兼系統だけの問題でもなく、前述した道隆の息子たちも、道長自身も、道長の息子も、破壊衝動をワイルドに発散しています。
トップに昇り詰めるような上級貴族でも暴力性とは無縁でなかったのです。
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