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【延喜・天暦の治】
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延喜の治(897-930年)
父である宇多上皇の意向により、藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政治を行いました。
方や藤原北家の当主。
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方や学識と忠誠心と実力で昇進してきた能臣という構図です。
道真のほうが時平より26歳も年上で、親子のような年の差がありました。
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宇多上皇は「時平はまだ若いが、実力のある道真にサポートさせれば立派にやっていけるだろう」と考えており、息子である醍醐天皇にそういった指示をしたようです。
そのおかげでこの政治体制は長く安定したとされます。
しかし、自分の家の権力を万全にしておきたい時平にとって、道真はやはり煙たい存在。だからこそ、讒言をして道真を大宰府に左遷させたわけです。
この時点では宇多上皇が存命中だったので、その影響を弱めるために道真を追放した……ともされます。
時平は荘園整理令や延喜格式の制定、歴史書の編纂なども積極的にやっているため、あながち悪者とも言い切れません。
その一方で、道真左遷の直後に妹の藤原穏子を入内させており、後に中宮になっているのでソコソコ野心もありますが……まあ、政治家らしいといえばらしいですね。
醍醐天皇
醍醐天皇自身は文化への関心が強く、古今和歌集の編纂を紀貫之らに命じています。
天皇自身も和歌をよく詠んでおり、勅撰集への収録はもちろん、家集「延喜御集」も編まれました。
また、醍醐天皇の宸筆(天皇の自筆)も残っています。
達筆すぎて一般人には読めないのがこの手の達人あるあるですが、何となく柔らかいというか、曲線の多い字を書く方だったようですね。
醍醐天皇自筆の日記「延喜御記」もあったらしいのですが、既に散逸してしまって現存していません。
33年間で20巻も書いていたらしいので、残っていれば当時の研究がもっと進んでいたでしょうね。
他の本に引用されたわずかな箇所は伝わっているそうなので、今後、別の本から新たに延喜御記の一部分が見つかることもあるかもしれません。
実は、歴史物語の「大鏡」にも、醍醐天皇の優しさが伺える話がいくつかあります。
「特に寒さの厳しい冬には、自ら薄着になった」
「流行り病や不作があった年には、税を減らしたり大赦を行った」
「干ばつの年には、冷泉院や神泉院といった上皇の御所にある池の水を民に分け与えた」
身分柄、直接一般市民の様子を見に行くことはできないからこそ、気象や社会事情から実情を想像していたのでしょうね。
そんなわけで政治面も文化面もうまく行っていたかに見えましたが、少しずつ暗雲が立ち込めていきます。
延喜九年(909年)にまず時平が亡くなり、その二年後、醍醐天皇と中宮・穏子の間に生まれた皇太子・保明親王が早世。
さらに、保明親王と時平の娘・仁善子の間に生まれた慶頼王も幼くして亡くなりました。
この一連の訃報が「道真の祟り」と噂されます。
そこで延喜二十三年(923年)、醍醐天皇は左遷の詔を撤回し、道真に官位を贈って慰霊を試みます。
が、延長八年(930年)に清涼殿落雷事件が発生すると、醍醐天皇も体調を崩し、朱雀天皇に譲位しました。
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その後、出家したものの、出家当日に亡くなっています。
朱雀天皇(930-946年)
朱雀天皇は生来病弱でした。
しかもその間にデカい事件が勃発しまくります。
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が立て続けに起きて心痛を極めたのでしょう。
24歳で譲位します。
皇位を引き継いだのは朱雀天皇の弟・村上天皇でした。
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