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【脩子内親王】
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養女・延子が入内して
相模が来たことも影響しているのか。
脩子内親王(しゅうしないしんのう)は出家後の長久元年(1041年)と長久二年(1041年)に歌合を催しています。
これまでの脩子内親王に関する記録の少なさからすると、以前はあまり社交をしていなかったと思われるので、何らかの心境の変化があったのかもしれません。
断定はできませんが、養女・延子が入内しているのです。
延子は藤原頼宗の次女で、母は藤原伊周の娘。
脩子内親王からすると、いとこを養女にしたことになりますね。
入内の話は後一条天皇の頃にもあったらしいのですが、なかなか話が進まなかったのか、後朱雀天皇に持ち越されました。
そして延子が実際に入内したのが長久三年(1042年)3月26日のことです。
もしかすると、脩子内親王は延子に宮中の雰囲気やしきたりを学ばせ、歌才や文学的素養を磨くために、二年前から歌合を催したのかもしれません。
また、脩子内親王の歌合に参加していた女房のうち、加賀左衛門と呼ばれていた人が延子に従って宮中に入ったともいわれています。
さらに延子もまた永承五年(1050年)には自分で歌合を主催しており、そこに相模や加賀左衛門が参加しているため、養母の思い出なども語りたかったのかもしれませんね。
前述の通り、脩子内親王の交友関係については明確な記録が乏しいのですが、
・歌の詞書で「一品宮に仕えている女性へ送った」というものがあったり
・「入道一品宮の元に人々が集まって遊んだ際に、敦貞親王(三条天皇の孫)が見事に笛を吹いた」
といった記述が散見されるため、貴族たちの出入りはたびたびあったようです。
脩子内親王のサロンも文芸的なものとして貴族社会に知られ、おそらく脩子内親王だけでなく、延子の評判にも良い影響を与えたでしょう。
死去
脩子内親王が亡くなったのは、永承四年(1049年)2月7日のことです。
これに先立つ寛徳二年(1045年)1月に異母弟の後朱雀天皇が崩御していましたが、同年4月に養女の延子が正子内親王を産んでいたため、脩子内親王の晩年の楽しみになっていたかもしれません。
脩子内親王の葬儀は永承四年2月15日に行われました。
その際、小侍従命婦という女房が相模に対して
いにしへの 薪もけふの 君が世も つきはてぬるを みるぞ悲しき
【意訳】薪尽火滅(釈迦入滅)も、今日宮様のお命が尽きてしまったこともとても悲しい
という歌を送り、相模からは
時しもあれ 春のなかばに あやまたぬ 夜半の煙は うたがひもなし
【意訳】折しも今日はお釈迦様が入滅した如月十五日。この日にご葬送となったのですから、宮様がご成仏なされたことは疑いようもありません
と返歌しています。
主人が亡くなったのは悲しいが、きっと成仏できたに違いない――そう思うことで相手を慰めつつ、自分の気持にも整理をつけようとしたのでしょう。
自分が世を去った後も女房たちが慕ってくれている。
そう知ったら、脩子内親王も慰められたのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
服藤早苗/日本歴史学会『藤原彰子 (人物叢書) 』(→amazon)
倉本一宏/日本歴史学会『一条天皇 (人物叢書)』(→amazon)
日本人名大辞典
『脩子内親王の文化圏 : 『枕草子』の善本所蔵に関連して』(→link)
ほか