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【脩子内親王】
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一品准三宮を与えられ
寛弘三年(1006年)8月。
藤原彰子の御所(この頃は一条院内裏)で、
・脩子内親王
・敦康親王
・媄子内親王
の三きょうだいが揃って童相撲を見物したと記録されています。
直前に敦康親王が体調を崩していたため、そのお祓いという面が強かったのでしょう。
あるいは彰子が「きょうだいを対面させてあげたい」と考えて呼び集めたのかもしれません。
彰子は一条天皇の意向に忠実ですから、三人とも健康でいてほしいと思っていたでしょうし。
寛弘四年(1007年)になると、一条天皇は脩子内親王(しゅうしないしんのう)を一品(いっぽん)に引き上げ、さらに准三宮としました。
一品は后腹の親王・内親王に与えられることが多いのですが、内親王に准三宮を与えるというのは、当時で史上三人目だったようです。
これも、一条天皇が将来に渡って愛娘の生活を安定させるために与えたのでしょう。
内親王の立場を安定させる手段としては、他に”伊勢の斎宮や賀茂の斎院に任じる”こともできますが、
『光る君へ』未婚の皇族女性が就く「斎宮」と「斎院」は何がどう違うのか?
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占いで選ばれないといけませんし、神に仕えてしまうと、さらに会う機会が減ってしまいます。
一条天皇としては、脩子内親王の姿形が定子に似ていて、近くに居てほしかったのかもしれません。
寛弘五年(1008年)5月25日には、妹の媄子内親王(びしないしんのう)が病死。
脩子内親王と敦康親王は、お互いが唯一の身内同然の状況になってしまいます。
「一条天皇も伊周もいるじゃん」とツッコミたくなった方もおられるかもしれませんが、どちらもそう簡単に会える状況ではありません。
入れ替わるように、寛弘五年(1008年)9月に藤原彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を出産しました。
脩子内親王と敦康親王の本心からすると、異母弟ができた嬉しさより、立場が弱まる不安のほうが大きかったのかもしれません。
しかも寛弘七年(1010年)1月には、伯父の藤原伊周が亡くなり、また一人肉親を喪ってしまいました。
『権記』や『小右記』では?
翌寛弘八年(1011年)には父の一条天皇までもが崩御。
そこで何かを決意したのか。
四十九日の後に、脩子内親王は叔父・藤原隆家のもとへ身を寄せました。
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詳細は定かではありませんが、養母の彰子が自らの皇子に手一杯なことや、今後の政治的立場を考えて、母方に身を寄せたのでしょうか。
藤原実資の日記『小右記』によると、脩子内親王の移転について道長は不快さを表していたようですので、反対されたのを押し切って移ったのかもしれません。
このタイミングだったのは、一条天皇の存命中は側にいたかったからだと思われます。
母の記憶が薄い分父を慕ったでしょうし、一条天皇としてもそう望んでいたでしょうし。
脩子内親王は前述の通り一品に封じられたことで個人的な収入があったので、住む場所さえ決まれば食べていける立場でもありました。
いくらか蓄えておいて、好機を待っていた可能性もありますね。
藤原行成の日記『権記』では、脩子内親王が引き移る日のことについて行成の視点から書かれています。
この日の行成は、一条天皇の法事などでバタバタしていたこともあり、いったん家に帰って休息した後、脩子内親王に供奉するかどうか迷っていたそうです。
おそらく「道長の機嫌を損ねないかどうか」を気にしていたのでしょう。
最終的には「先帝に御恩があるのだから、このようなときは宮たちに奉仕するべき」と思い直し、ちょうど内親王の車が自宅の前を通ったので、急いで後に従ったのだとか。
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