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【後朱雀天皇】
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今度は頼通の養女・嫄子が入内して
長元九年(1036年)4月、後一条天皇が崩御しました。
次に皇位を継いだのがこの敦良親王であり、後朱雀天皇となります。
即位後は、道長の跡を継いだ関白・藤原頼通が養女の藤原嫄子を入内させて中宮に立てました。
これにより禎子内親王は皇后へ。
道長によって一帝二后が定着していた時代とはいえ、禎子内親王としては気分が良くなかったでしょう。
長元十年(1037年)、禎子内親王は内裏を出ることを選びます。後朱雀天皇は未練があったようで、こんな歌を贈っています。
あやめ草 かけし袂の ねを絶えて 更に恋ぢに まよふ頃かな
【意訳】袂にかけた菖蒲の根が切れるように、あなたと共寝することも絶えてしまって、私は恋路に迷っているよ
なかなか情熱的な歌ですね。
この後、禎子内親王が参内しなくなるのは、関白・頼通の娘に入内されて皇女といえど対抗しきれなかったからでしょう。
禎子内親王のほうでも後朱雀天皇を嫌いになったわけではなく、退去前にこんな歌を贈っていました。
今はただ 雲ゐの月を ながめつつ めぐりあふべき 程も知られず
【意訳】今はこの宮中で名月を眺めていますが、次はいつこの月に巡り会えるのか見当もつきません
この場合の「月」は後朱雀天皇を例えているとされます。
国の頂点であるはずの天皇と皇后であっても、このような切ない状況になっていたとは意外かもしれませんね。
一応、禎子内親王にも支援者はいました。
藤原頼通の異母弟である藤原能信(よしのぶ)です。
父は道長、母が源明子であり、能信はなかなか濃いキャラだったのですが、いずれにせよ内裏においては支援者がいるといないとでは生活力も発言力も大違い。
後に能信の存在は、後朱雀天皇と禎子内親王、そして後世にとって大きな影響を及ぼします。
荘園整理令で外戚の壁に阻まれる
他にも後朱雀天皇のもとへ、頼通の弟・藤原教通が娘の藤原生子(せいし/なりこ)を、同じく藤原頼宗が娘の藤原延子(えんし/のぶこ)を相次いで入内させました。
が、いずれも皇子を出産できず。
内親王は複数生まれているので、後朱雀天皇は比較的公平にお渡りしていたのでしょう。
後朱雀天皇は前述した藤原嫄子にも先立たれており、その翌年の七夕に、頼通へ哀悼の歌を贈っています。
こぞのけふ 別れし星も 逢ひぬめり などたぐいなき 我が身なるらん
【意訳】織姫と彦星は今宵再び逢ったようだが、私には連れ合いがなくて悲しいよ
禎子内親王への気持ちに嘘はなさそうですし、後朱雀天皇は情の濃い人だったのかもしれません。
摂関家の娘から皇子が生まれなかったこともあってか、後朱雀天皇は彼らと対立しかねない政策を選びました。
【荘園整理令】です。
当時は大貴族や大寺院に寄贈される荘園が多すぎて、朝廷の国庫が心もとない状態になっていました。
早い話、カネが足りない。
国家を運営していくには、この荘園にメスを入れて税を回収するしかなく、最も手っ取り早い方法は領主の分をいくらか削ることですね。
しかし、貴族や寺院にしてみりゃフザけんな!という話で当然反発を招き、長久元年(1040年)からこの方針を進めようとした後朱雀天皇はいきなり壁にぶち当たりました。
結局、この荘園整理令の進展は次次代・後三条天皇の時代まで待たねばなりません。
なぜ後三条天皇は道長一族の権力を排除できたのか『光る君へ』その後の世界とは
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★
後朱雀天皇の崩御は、寛徳二年(1045年)のこと。
1月16日に後冷泉天皇へ譲位し、同月18日には出家してそのまま亡くなりました。
これで母の藤原彰子は二人の息子に先立たれたことになり、その悲しみは余人の想像を絶したでしょう。
『光る君へ』では新生児~幼児時代の出演になると思われる後朱雀天皇。
たどった生涯の切なさを思うと、より感慨深くドラマを見られるかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
服藤早苗『人物叢書 藤原彰子』(→amazon)
『新訳 後拾遺和歌集』(→amazon)