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【花山天皇】
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「お前には俺の家の正門前は通れまいw」
在位中から「色々と大丈夫なのか……?」(超訳)という評判だった花山法皇。
出家後は延暦寺などでの修行もしたとされますが、その一方で荒ぶるエピソードも残されています。
最たる例が藤原隆家との間で起きた一件でしょう。
あるとき花山天皇が隆家に向かって言いました。
「いくらお前でも、俺の家の正門前は通れないだろw」
当時、高貴な人の家の前を牛車に乗ったまま通り過ぎることは失礼とされており、花山法皇は「お前みたいな若造に、それができるんかい?w」と煽ったわけですね。
「おぅおぅ、余裕っすよ~!」
“天下のさがな者(暴れん坊)”と呼ばれ、【刀伊の入寇】では異国の賊も撃退するほどの武威を誇る隆家です。
まだ若く血気盛んな頃であり、花山法皇の挑発に容易く乗ってしまいます。
そして50~60人の部下を引き連れ、ド派手な衣装と牛車で花山法皇の邸へ向かうと……。
そこで待ち構えていたのは石や杖で武装した70~80人の法師(僧兵)や武士、少年などでした。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2024/03/8fb23beb7a91d0f742215b99d0ad6d58.jpg)
僧兵/wikipediaより引用
それを見て、一瞬躊躇した後に戦意喪失する隆家。
総勢100人以上の者たちが正面からぶつかりあえば只事では済みませんので、引いておいて大正解でしょう。
「えらい恥をかいてしまった」と素直に負けを認めたようで、潔さも感じさせます。思えば『光る君へ』でも、そうした素直な一面を見せていましたね。
花山法皇は大喜びだったようで、大人げないというか、やはり、どこかぶっ飛んでいるというか……。
ただ、その一方で、絵画や和歌などの芸術的才能には恵まれていたともされ、単にヤバい人というわけではない気もします。
『拾遺和歌集』を自ら編纂した説もあり、周囲からも文化的な人物と思われていたのでしょう。
とすれば「政治的センスに欠ける」くらいの評価が適切のような……まぁ、こうした評価が『光る君へ』での描き方に繋がったのでしょう。
道長の権力が絶大なものとなり歴史は進んだ
出家後は摂津の中山寺(現・兵庫県宝塚市)で紛失したと思われていた“観音霊場三十三ヶ所の宝印”を見つけ出し、自らこの法印の霊場を巡礼して、強い法力を身につけたといいます。
「お宝を見つけてパワーアップした」って書くと、なんだかRPGの主人公みたいですね。
現在でも花山法皇の巡った場所が「西国三十三所巡礼」として伝わっており、各地に【御製(ぎょせい)】が書かれているとか。
花山法皇はこの巡礼の中で、摂津国の東光山(現・兵庫県三田市)を特に気に入り、巡礼が終わって京に帰るまでの十数年間を過ごしたといいます。
そのため、東光山には御廟所も作られ、西国三十三所巡礼の番外霊場ともなりました。
しかし、おそらく巡礼から帰京した後に少々良からぬ事件が起きてしまいます。
花山法皇がこっそり通っていた女性の屋敷で、とある貴族に恋敵と勘違いされて矢を射かけられてしまったのです。
貴族とは、藤原伊周(これちか)と、またまた登場の藤原隆家です。
伊周が通っていた女性が、花山天皇のお相手の姉だったため、勘違いされたといわれています。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2017/01/93a9ba27a4edaecf64324ee54133b46f.jpg)
藤原伊周/wikipediaより引用
この辺は『光る君へ』でも丁寧に描かれていましたので、ご存知の方も多いでしょうか。
劇中では詳しく描かれませんでしたが、矢が放たれた後に花山法皇や伊周の部下たち同士でドンパチが始まってしまい、結果、2名の死者も出てしまいました。
こんなトラブルを起こして無事に済むわけもなく……ここで登場するのが藤原道長です。
伊周と隆家の流罪で道長がさらに台頭
藤原伊周はタイミング悪いことに、叔父の藤原道長と大政争を繰り広げていたタイミングでした。
花山法皇は、出家の身で女性の元へ通っていたことの後ろめたさや、単純に命を落としかけたという恐怖からか、自らこの事件を表沙汰にすることはありませんでした。
しかし、人の口に戸は立てられません。
どこからか噂が立ち、下手人は誰それだという話も広まり、伊周・隆家は流罪となってしまいます。
そして二人の姉(妹)である、ときの皇后・藤原定子は目の前で兄弟が引き立てられていくのを見て、自らその場で髪を切って仏門に入るほどの衝撃を受けてしまいました。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2024/10/889cab6572a9d6dcc2fc38e020a54c1b.jpg)
枕草子絵詞/wikipediaより引用
この一件により道長の立場はさらに強くなり、また歴史が進んでいくわけです。
花山法皇自身にあまり責任はないのですが、なんとも後味の悪い話で。
その後は再び修行にでも励んだのか、12年後に亡くなるまで特に逸話はありません。
40歳で亡くなったことになりますから、当時の寿命としてもおかしくはないですし。そのせいで、襲撃された事件のことが余計に目立つのかもしれません。
『光る君へ』ではSNSのトレンドになるほど話題になった人物ですが、ドラマではそのまま出番はなく残念でした。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
花山天皇/wikipedia