歴史は、時代と社会の成長と共に【登場人物のバリエーション】が増えます。
古くは為政者とその周辺でしか残されなかった記録が、庶民の生活や文化へと広がっていくためです。
もちろん「何もかもうまくいっていた幸福な時代」なんてものは存在しません。
むしろ、いずれの時代にも数多の問題や犯罪があり、苦しめられた人もいれば、解決のために努力を重ねた人もいます。
今回は室町時代から始まった、ちょっと物騒な解決方法
【土一揆】
のお話。
「つちいっき」
「どいっき」
どちらの読み方でも良さそうなので、皆様お好きなほうで脳内変換をお願いいたします。
・正長の土一揆
・播磨の土一揆
・嘉吉の土一揆
と併せて見て参りましょう。
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「土地を返してくれ」がなぜか通る時代
土一揆とは、農民や地侍、馬借など、比較的身分の低い一般人が起こした一揆(暴動)のことです。
”暴動”というといかにも穏やかならぬ雰囲気ですが、必ずしもそうでないケースもあります。
室町時代の中期以降。こうした庶民の自治・連帯意識が強まり、何かあったときに団結して抗議活動が行われるようになりました。
現代に置き換えると「一般のサラリーマンや主婦、学生などが、地域ごとにまとまってデモを起こした」みたいな感じですかね。
一揆の場合は、近隣の国に波及して数カ国規模になることもありました。
土一揆の目的は、ほとんどが支配者層に徳政(借金チャラ)を求めることです。
これは当時の社会通念が絡んでいます。
この時代は「土地を売買した後でも、元の所有者の権利は失われない」とか「機会があれば元の持ち主に返すべきだ」という概念があったのです。
現代では「売った後は買い手のものだから、買い手がどうしようと問題ない」ですから、なんとも奇妙な感じがしますね。
どこからそういう考えが出てきたのかよくわかりませんが、もしかしたら奈良時代の墾田永年私財法(743年)などの影響なのかもしれません。
先祖代々同じ土地を受け継いできた家であれば、
「俺の家の土地は大昔にお偉いさんからもらったんだから、(お偉いさんより身分が低い)売り主はいつか俺に返すのが当たり前」
という考えが出てきてもおかしくはない……ですかね。
そういうわけで、生活苦の他に、天皇や将軍の代替わりなどの慶事に際して「このめでたい日に、俺らの土地も返してくれてもいいんじゃない?^^」みたいなノリで土一揆が起きることがありました。
そのうちスパンが短くなり、年間行事みたいになっていったのはいただけませんね。
多少なりとも死傷者は出たでしょうから、物騒な話です。
本筋とは関係ない話ですけれども、戦国時代あたりの日本人って「戦闘民族かよ」って言いたくなるような事件が度々あります。
幕府「1割納めれば後は知らんよ」
室町幕府も土一揆を取り締まろうとはしました。
が、そもそも幕府自体の力も衰えており、スムーズな鎮圧は難しい状態。
取締りを命じられた守護大名家にしたって、長年の京都滞在で生活費に困っていた下級武士が多く、中には一揆側につく者もいたほどです。
【応仁の乱】直前には、そういった兵によって蔵が荒らされ「私徳政」とのたまう者もいたといいます。
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まぁ少なくとも、ワガママが極まって町を焼いてる幕府のお偉方より、私徳政を行う者のほうが一般人のことを考えてるようには見えますね。
幕府でも力で押さえつけられないことを悟ってか、時代が進むと「分一徳政令」という法律を作って一揆をなだめようとしています。
これは、紛争の元となった債権の”一”割を幕府に納めれば、残りの九割を当事者の自由にして良いというものです。
逆側から見ると、「幕府はもう一揆が起きたら収拾しないよ!」と宣言したようなもの、ともとれますが……。困ったのは、寺院や土倉(質屋)のような、一気に襲われる側です。そのため、彼らは自衛として兵を雇うようになりました。
まあ、その前から武装してるところもありますけれど。
ちなみに土一揆の「土」は、当時農民・百姓のことを「土民」と呼んでいたことに由来します。

絵・小久ヒロ
地侍や馬借の立場はどうなの?という感じですが、主軸が農民・百姓だったからでしょう。人口比率的にも多かったでしょうし。
もしくは、朝廷で身分の低い者=御殿に上がれない者のことを「地下人(じげにん)」や「地下(じげ)」と呼ぶので、「土に近い場所で暮らしている者ども」という意味でひっくるめられたのかもしれません。
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