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【大内義弘と応永の乱】
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義満も懐柔しようと思ったものの、ついには討伐命令
義弘は、かつて義満に勢力を弱められた守護大名やその縁者、比叡山などの寺社勢力、旧南朝方の武士たちと連絡を取り、連携しようとしました。
これに対して、義満の勢力が上回り、うまく行かずに失敗。
義満もやりすぎたと思ったのか。義弘を懐柔しようとしたこともありましたが、義弘はもう後戻りできないと考えており、降伏を拒否します。
懐柔できないと悟った義満は、正式に義弘討伐の命令を出します。
その知らせを聞いて義弘も覚悟を決めました。
自身の葬儀と四十九日の法要を執り行い、周防にいる母宛てに形見の品々と手紙を送るほどです。これでは勝って帰ったとしても、自分が生き残るつもりはなかったかもしれません。
闘いは、堺の地で始まりました。
義満は細川・赤松・畠山・斯波家など、室町時代でお馴染みの守護大名らを動員、約3万の兵を率いて大内軍を攻めます。
対する大内軍は士気も高く、よく戦い、何度も足利軍を撃退しながら、火攻めをかけられると劣勢に傾きます。
しかし、家臣の多くが討ち死にし、自ら戦い続けた義弘も、最後は畠山満家に討ち取られました。
義弘とともに堺へやってきていたもう一人の弟・弘茂も後を追おうとしたものの、思いとどまり、義満に降伏することを選びます。

応永の乱/photo by 味っ子 wikipediaより引用
義弘の菩提を弔うために瑠璃光寺五重塔を建立
義満は弘茂の降伏を受け入れ、大内家の家督を継ぐことを認めました。
義弘が何を思って兵を挙げたか。
義満にはわかっていたんですかね……。
実際、この後、周防に残っていた別の弟・盛見(もりはる)が反対し、今度は家督争いが始まります。
最終的には盛見が弘茂をブッコロして勝利。
文字通り骨肉の争いに終止符を打った後の盛見は、義弘の菩提を弔うために瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔を建立します。
おそらくや義弘と弟たちの関係は悪くはなかったのでしょう。
現在、これは大内家の文化を象徴するものとして、国宝になっています。
★
大内家はその後もたびたび家督争いを起こすものの持ち直し、応仁の乱でも一大勢力として関わりました。
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京がいろんな意味でボロボロになったときには、多くの公家が大内家の庇護を求めてやってきたほどです。
ザビエルが立ち寄り、日本で最初に眼鏡をかけたのも大内義隆でしたね。
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まあ、その後に義隆とダメダメな仲間たちが痴情のもつれやアレコレやった末、元就に滅ぼされてしまうんですが。
義弘が詳しい経緯を知ったら「この軟弱者がッ!!!」とブチ切れそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
大内義弘/wikipedia
応永の乱/wikipedia