こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【曾我兄弟の仇討ち】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
一時は命を救おうともしたが
合戦でもないのに人を殺しておいて騒ぎにならないわけがありません。
気付いた他の御家人たちが兄弟を取り囲み、兄の祐成はその場で討たれ、弟・時致は翌日頼朝の前へ引き立てられました。
そこで彼が父の仇を取るためにやったということを説明すると、頼朝は一時罪を許そうとします。
頼朝もかつて父・義朝を殺され、伊豆に流されて苦労をしていますので、他人事とは思えなかったのでしょう。
-
史実の源頼朝はいかにして鎌倉幕府を成立させたか?53年の生涯まとめ
続きを見る
ですが、そこは初の武家政権を作った人です。
祐経の子供たちが「許せません!」と言い張ると、時致の首を刎ねることに決めました。
仇が討てれば自分の命はどうでも良かったのか。それとも兄も既に討たれていたからか。
時致は抵抗することも、異論を唱えることもしなかったとか。
範頼がどでかいミスをやらかして、源氏の悲劇に……
こうして仇の取り合いが続くようなことは防げたのですが、丸く収まらなかったことが一つありました。
上記の通り、この仇討ちはときの将軍・頼朝が出かけた先でのことであり、そのせいで鎌倉幕府に大混乱が起きてしまったのです。
現代のような情報網がない時代。いくら正確に伝えようとしても、失敗した伝言ゲームの如く、話が全く別物になるのもままあることでした。
このときも、いつの間にか「源頼朝が暴漢に襲われて生死不明」という話になってしまい、幕府中枢は大混乱に陥ります。
後に「尼将軍」と呼ばれるほどの烈女・北条政子も気が気ではありませんでした。
-
史実の北条政子はどこまで鎌倉幕府を支えたか?鎌倉殿の13人小池栄子
続きを見る
そこでうっかりどでかいミスをやらかしてしまったのが、頼朝の縁者で一番まともだった弟・源範頼です。
彼は義姉を励ますつもりで「源氏には私がいますからご安心を」と言いました。
が、疑心暗鬼に陥りかけていた政子は、これを「私が次の将軍になりますからw」という意味に取り違えてしまったのです。
政子の考え方もちょっと飛躍しすぎているし、範頼も範頼でまずい発言ですわな。
「落ち着いて続報を待ちましょう」くらいであれば疑われることはなかったんじゃないかと思うのですが。
そして無事頼朝が帰ってくると、涙ながらの再会もそこそこに、政子は「アナタの弟さん怪しいわよ」とチクってしまいました。
さすがに、妻の言うことをその場で鵜呑みにしたわけではないでしょう。
が、源平の戦い中や義経とのアレコレがあった後では、頼朝にとって「身内」というだけで人を信じることができなくなっていたことは想像に難くありません。
その後どうなったかは……以下の過去記事をご覧ください(´;ω;`)
あわせて読みたい関連記事
-
史実の源範頼はなぜ兄の頼朝に殺されたのか?鎌倉殿の13人迫田孝也
続きを見る
-
主君のBLに横恋慕して殺害!鍵屋の辻の決闘がなぜ日本三大仇討ち?
続きを見る
-
赤穂事件=赤穂浪士の討ち入りはテロ事件?史実はどのように進んだか
続きを見る
-
史実の源頼朝はいかにして鎌倉幕府を成立させたか?53年の生涯まとめ
続きを見る
-
史実の北条時政はどんな武士だったのか?鎌倉殿の13人坂東彌十郎
続きを見る
-
史実の北条政子はどこまで鎌倉幕府を支えたか?鎌倉殿の13人小池栄子
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
曾我兄弟の仇討ち/Wikipedia