後鳥羽上皇

後鳥羽上皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

後鳥羽上皇って実はマッチョな武闘派!菊の御紋で承久の乱を引き起こす

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内裏再建で東国武士と決別

とはいえ、即座に承久の乱へとなだれ込んだわけではありません。

実朝の暗殺は建保七年(1219年)、承久の乱は承久三年(1221年)です。

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まず実朝の暗殺と同じ年に、内裏守護である源頼茂(摂津源氏の人・頼朝たちの遠い親戚)が西面武士に襲われて内裏の仁寿殿に籠り討死するという事件がありました。

このときの火災によって仁寿殿の他、多くの内裏の建物が焼けてしまいます。

事件の原因については諸説ありますが、内裏が燃えたのをそのままにしておくわけにもいきません。

そのため、後鳥羽上皇は内裏再建のため全国に人手を出すよう命じました。

しかし、東国の地頭たちがこれを拒否します。

幕府ができて既に20年近く経っていたので、東国生まれ・東国育ちで京を知らない若い世代からすれば「何でどこの誰かわからんヤツのために人と金を出さなきゃならんのだ」と思っても不思議ではありません。

また、「西面武士」というのが後鳥羽上皇の設けた新しい役職だったため、これも鎌倉から見れば「何で朝廷の内ゲバのためにこっちが人と(ry」とも思えたでしょう。

最終的に西国各地からの費用で工事が行われましたが、その負担はかなりのものだったはず。

そして、後鳥羽上皇が幕府や東国への印象を損ねたことは間違いないでしょうね。

後鳥羽上皇としては、自分が日本全体の主君だという自負があるわけですし。

 

土御門天皇は自ら流刑にせよと仰られ

それから2年後の承久三年(1221年)5月14日。

後鳥羽上皇は流鏑馬を口実に諸国の兵を招集し、招集に応じなかった御家人・伊賀光季や親鎌倉派を粛清して、倒幕の兵を挙げました。

この手の動乱、我々は結果を知っているから『ついにやってしまったか……』という印象を持ちがちです。

しかし、少なくとも乱が始まる前の後鳥羽上皇陣営はイケイケでした。

というのも鎌倉幕府の主要御家人を配下に従えていたのです。

もともと後鳥羽上皇は自身が怪力マッチョな武闘派でもありました。武士に慕われる要素を持ち合わせていた人であります。

挙兵した段階では、少なくとも畿内周辺は後鳥羽上皇のエリアになってもおかしくない――そんな皮算用をしたくなるのも無理はありませんでした。

しかし、現実は厳しいものでした。

院宣を出してからたった2ヶ月後には北条義時の嫡男・北条泰時が軍を率いて上洛し、主に乱に関わった後鳥羽上皇や順徳天皇が配流となるボロ負けっぷりに終わります。

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まさしく一方的な戦いだったのです。

土御門天皇は関与していなかったので当初は罰されませんでした。

ところが、です。

自ら「父や弟が流されていくというのに、私だけ京にいるなどということはできない」として、幕府に自分も流刑にせよと命じました。なんてデキた人なんだ。

幕府も「そんなにおっしゃるなら都からは出ていただきますが、都に近いところにしますね」と土御門天皇には気を遣っています。

そして最初は土佐(現・高地県)に、次は阿波(現・徳島県)を配所にしました。

土御門天皇/wikipediaより引用

土御門天皇自身が寛喜三年(1231年)に亡くなっているため叶いませんでしたが、鎌倉幕府としては、ほとぼりが冷めれば土御門天皇を京へ戻すつもりだったかもしれませんね。

他に、後鳥羽上皇の孫で順徳天皇の息子である仲恭天皇も廃位となり、後鳥羽上皇の系統は皇位から遠ざけられることになります。

仲恭天皇の次には、後鳥羽上皇の兄で安徳天皇の弟である守貞親王(後高倉院)の皇子・後堀河天皇が立ちました。

 

「隠岐の牛突き」は後鳥羽上皇を慰めるために始まった

後鳥羽上皇は隠岐へ流されることになりました。

渡航直前に出家し、僧侶姿で隠岐へ渡ったとされています。

その後18年を隠岐で過ごし、延応元年(1239年)に亡くなりました。

隠岐でのエピソードは特にありませんが、現代に伝わる「隠岐の牛突き」は、離島で不遇をかこつ後鳥羽上皇を慰めるために始まった行事だといわれています。

牛同士の相撲といった感じの競技で、ときには一時間以上に及ぶ取り組みもあるとか。

後鳥羽上皇は隠岐でも多くの歌を詠んでいますし、配流先の生活も気が滅入るばかりではなかったのかもしれませんね。

少なくとも周囲から「あのお上はとんでもない方だ」としか思われていなかったら、島民も慰めようなどと思わなかったでしょうし。

後堀河天皇が22歳という若さで亡くなったため、当時の都人は「後鳥羽上皇は生霊になり、後堀河天皇を取り殺した」と思っていたようですが、それはちょっとかわいそうですよね。

最後にもう一つ、後鳥羽上皇に関するエピソードをご紹介しましょう。

後鳥羽上皇は京都にいた頃、お抱えの刀工に刀を打たせ、自らも焼刃を入れる……ということを頻繁に行っていました。

これらの刀に、十六弁の菊紋を彫り込んだといわれています。

北野天満宮楼門の御紋

これを「御所焼」や「菊御作」と呼び、天皇家の菊紋のはじまりとみなされるようになりました。

現代でも、国内外ともに花びらが十六枚の「十六菊紋」は皇族だけが使える紋章です。

武家政権の台頭を(不本意ながら)決定づけたことと、菊の御紋。

後鳥羽上皇は日本史に最も大きな影響を残した天皇……といってもいいかもしれませんね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント (文春新書)』(→amazon
鳥羽天皇/wikipedia
隠岐の島町役場(→link

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