足利学校

足利学校の学校門

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足利学校が「中世戦国の騒乱」を経て現代に至るまで~上杉憲実の苦心

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儒教や学問を学んで良き人間になろう

憲実が足利学校の校則を定めたのは、こうした権力と忠孝の揉め事で、世の中がほとほと嫌になっていたと思われる頃合いです。

それを踏まえて、彼がこの時定めた「学規三条」を見てみましょう。

例によって、意訳でご勘弁ください。

「ここで学んだことや学校内の規則を守ること」

「勉強をサボるなら出て行け」

「生徒は入学以降、僧侶扱いとする」

最後の一つはともかく、他の二つはごくごく当たり前のことですね。

しかし、上記の経緯からすると、憲実は「儒教や学問を正しく学び、身につけ、良い人間になれよ」と学生たちに言いたかったのでは……という気もします。

儒教的に考えれば、持氏の態度や、しでかしたコトはありえないどころの話ではないし、それを止められなかった自分への不甲斐なさもあったでしょう。

学生たちが自分たちの二の轍を踏まないように、改めて諭すつもりだったのでしょうか。

憲実は校長にあたる「能化(のうげ)※江戸時代は庠主(しょうしゅ)」に鎌倉円覚寺の僧・快元を招くなど、良い教育者の招請にも力を注ぎました。

結果、良い教師が集まり、さらに評判を聞きつけて全国から生徒が集まるようになり、それに伴って能化・庠主にも足利や関東だけでなく、さまざまな地方の出身者が就くようになっていきます。

 

いわく「日本最大の大学デース」

足利学校の学費は無料ながら寮はなく、学生たちは近隣の民家に下宿していたそうです。

また、学校の敷地内に畑や薬草園があり、自分たちで野菜や薬草を育てていたとか。畑仕事をすることで、いくらか体も鍛えられたでしょう。

教育内容としては儒教をベースとし、兵学や医学なども含まれていました。

といっても現代の学校のように先生が授業をするスタイルではなく、自学自習が基本というところが大きく違います。

つまり、足利学校で認められるということは「知識を自ら求めて身につけ、先生が太鼓判を押した」ことを意味したわけです。

そのため、「足利学校出身」は大名家への出仕を目指す者にとって、最高のアピールポイントになりました。

フランシスコ・ザビエルには

「日本で最も大きく、最も有名な坂東(関東)の大学」

と記録されています。

ザビエル自身が足利学校を訪れたわけではないので、彼が行った西日本でも少なからず足利学校のことが話題になっていたということでしょうね。

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家康の信頼を得て庇護されたが……

戦国時代の終盤・小田原征伐の後、庇護者だった長尾氏が滅んだことで、足利学校は一時危機を迎えます。

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しかし、第九代庠主・三要が徳川家康に仕え、信頼を得たことで、徳川家が足利学校の新しい庇護者になってくれました。

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江戸時代中、足利の地は度々領主が変わりましたが、足利学校自体に100石の領地を与えられ、何とかやっていくことができています。

近郊の人々が学ぶ学校として、江戸時代中期までは広く親しまれていたそうです。

 

しかし、それ以降足利学校で教えられていた易学よりも、新しく伝わってきた朱子学が重んじられたため、時代遅れになってしまいました。

平和が続いたため、兵学が必要なくなったというのも大きかったようです。

その後は学者たちによって、貴重な古書を所蔵した図書館とみなされていました。役割が変わったとはいえ、残らないよりはマシですね。

 

廃校になるも旧・足利藩士らが蔵書や敷地を守る

江戸から明治への激動の中で、足利学校は廃校となりました。

敷地の東半分が小学校に転用され、蔵書も散逸の危機にさらされます。

しかし、旧足利藩士らの努力によって、蔵書や敷地の西半分は地元に返還されました。足利藩は多少優柔不断なところがあったものの、新政府方についたからかもしれません。

明治三十六年(1903年)には栃木県初の公共図書館・足利学校遺蹟図書館として再出発、旧来の蔵書と一般図書を併せ持つ施設となります。

また、その時点で残っていた建物も国の史跡として保護されることになりました。

1980年代には小学校の移転や一般図書の移管が行われ、元の姿に近い形の足利学校が復元されています。

今、訪れることができるのは、江戸時代中期の姿を再現したものです。

足利学校

2015年には「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」の一つとして日本遺産にもなっています。

今のところ、足利学校に限らず日本遺産の知名度は高くありませんが、増やしたり宣伝したりすれば、クールジャパンに繋がったりしませんかね。

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長月 七紀・記

【参考】
足利市HP(→link
国史大辞典
足利学校/wikipedia
上杉憲実/wikipedia

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