藤原秀康

源平・鎌倉・室町

後鳥羽上皇に使われ捨てられた藤原秀康の最期~鎌倉殿の13人星智也

兵力がデカすぎたため、双六の最中、突然、斬られた上総広常

一生懸命仕事をやりすぎて御家人仲間から嫌われ、京都へ行く途中、討たれてしまった梶原景時

などなど、惨い死に方で御馴染みの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。

終盤に入り、もうこれ以上、インパクトのある死に方など無いと思ってしまうかもしれませんが、それは甘い。

最後の最後、【承久の乱】に絡んで、非常に哀しいため息しかつけないような、イヤ~な死に方の武士が登場します。

藤原秀康です。

ドラマでは星智也さんが演じるのですが、承久の乱の放送より少し前の11月27日、隠岐開発総合センターでトークショーが開催され、三浦胤義役の岸田タツヤさんと共に登壇されます。

いやぁ、NHKさんも、実に遊び心のある取り計らいをするもんですな。

隠岐島と言えば後鳥羽上皇の配流先。

藤原秀康はその配下であり、承久の乱では朝廷軍を率いて戦っていたのですが、最後の最後に後鳥羽上皇からこっぴどく裏切られ、失意のままに捕縛されて斬られるという終わり方なのです。

もしかしたら、そこまで放送はされないかもしれない。

されど見捨てたら可哀相な。

藤原秀康の事績を振り返ってみましょう。

 

藤原秀康は和田一族の生き残り?

藤原秀康とは一体どんな人物なのか?

彼の生涯に着目しますと、まず父親の藤原秀宗について、こんな因縁が語られたりします。

和田三郎宗妙の子である――。

和田三郎宗妙とは、あの和田義盛の弟・和田宗実の子であり、「和田一族の出である」という点は注目されます。

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しかし年齢差などを考慮すると、秀康が和田一族の血を引くには無理があり、噂話の域を出ません。

問題は、なぜ、そんな話が出回ったのか?ということ。

実は、和田義盛の孫である和田朝盛と混同された可能性も考えられます。

朝盛は和歌の才があり、源実朝とも親しい人物でした。

それが【承久の乱】では朝廷に味方して参戦したため、戦後に捕縛され、消息は不明。

藤原秀康もまた同乱では朝廷方の武士でしたので、朝盛との混乱が生じたというのはあり得るでしょう。

さらには……。

【承久の乱】では、三浦一族もなかなか際立った動きをします。

三浦義村(ドラマでは山本耕史さん)の弟である三浦胤義が朝廷方となり、兄弟間で激突が生じるのです。

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和田一族も、元を辿れば同じ三浦一族。

後鳥羽院が、鎌倉御家人たちの不安不和を煽るため、三浦や和田を突っつけば、話としては盛り上がる。

そんな数々の因縁に、藤原秀康が絡められた話といえそうです。

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しかし秀康は、坂東との関わりはそう深くありません。

北面武士、西面武士を務める西国の武士であり、国司を歴任している内に、後鳥羽上皇の倒幕計画に適任者だとされたのです。

相手は、血で血を洗う争いを長く続けてきた坂東武者。

朝廷軍では、圧倒的に実戦の経験が足りず、藤原秀康の運命は決まっていたようなものでした。

 

三浦胤義の引き込みに成功

北条義時を討つ――そう決意した後鳥羽院が挙兵するにあたり、まず何をしておくべきか。

準備段階として、ある人物を味方にするよう藤原秀衡に命じました。

「三浦義胤を味方に引き入れよ」

前述の通り、三浦義村の弟であり、立場を考えればかなり難しそうな状況ですが……。

実はこのときの三浦義胤は、京都の警備を担う「大番役」の任期が切れても一向に鎌倉へ戻らず、何か意図があって京都に滞在している――そう思われてもおかしくはない状況でした。

そうした情報に後鳥羽院が目をつけたのでしょう。

後鳥羽院の意向を受けた藤原秀康が、自邸に胤義を招き、酒をすすめます。

「あなたは三浦からも鎌倉からも去り、京にいるのは何故でしょう?」

「妻子の無念を思うと……」

胤義は、切々と語ります。

彼には、一品房昌寛の娘という妻と、その連れ子・禅暁という義理の息子がいました。

一品房昌寛の娘はもともと二代目鎌倉殿・源頼家の側室であり、禅暁はその子供。

頼家の息子と言えば公暁が有名ですが、禅暁はその異母弟という間柄になります。

事件は、建保7年(1219年)正月、起きました。

公暁が三代目鎌倉殿・源実朝を暗殺したのです。

公暁
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空位となった将軍職には、九条家から迎えた三寅(のちの九条頼経)に決まり、源氏将軍は断絶が確定。

次の将軍候補として誰かに担ぎ上げられる危険性のある禅暁は、承久2年(1220年)4月、誅殺されました。

「我が子を殺されて泣く妻を見ていると、北条だけは許せない!」

そう訴える胤義。

かくして秀康は、容易く味方の陣営へ引き込むことに成功したのでした。

 

京都守護・伊賀光宗を討つ

幕府の中枢にいる三浦義村、その弟・三浦胤義を味方に引き込み、幸先よし――上皇方は次の一手を打ちます。

承久3年(1221年)5月、今度は京都守護の伊賀光季を呼び出しました。

彼もまた鎌倉と縁が深い人物です。

伊賀光季の母は二階堂行政の娘であり、北条義時の継室・伊賀の方のえ)の母とは姉妹。

つまり光季と伊賀の方はいとこ関係ですね。

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義時は、伊賀の方が産んだ息子・北条政村を寵愛しており、北条家と伊賀家の結びつきは弱くありません。

政村が義時に可愛がられたからこそ、その死後、伊賀一族が野心を暴走させる一因になったとも指摘されたりするほどです。

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そんな伊賀一族出身の伊賀光季ですから、後鳥羽院の召集には応じません。

すると三浦胤義らは、八百騎余を率いて伊賀光季の寝所を襲うという大胆な行動に出ます。

光季は、門を開き、相手の非を叫びました。

「後鳥羽院に対して罪なぞないのにも関わらず、勅勘(勅命による勘当)を受けるとは何事か!」

「時勢に従ったまでよ! 宣旨により召集され、貴殿を討つべく参じたのだ」

唐突に襲撃され、応戦すらままならない光季は、我が子の光綱を刺し殺して炎の中に投げ込むと、自らも自害して果てました。

果たして光季の死は、朝廷陣営にとって狙い通りだったのか?

実は後鳥羽院は「味方にしたかった」と光季の死を惜しんでいましたが、義時の姻族を殺したからにはもはや後戻りはできません。

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