延応元年(1239年)2月22日は、後鳥羽上皇が配流先の隠岐国で亡くなられた日です。
【承久の乱】という、どでかいインパクトを持っているため、皇室の中でも屈指の存在感ですが、意外と親近感や人間くささを感じさせる人物でもあります。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、落ち着いた所作で頭脳キレッキレ……かと思えば、ラストは文覚にからまれ情けなさも見せていた姿を尾上松也さんが演じていますね。
では史実でどんな人物だったのか?
流罪となる直前に出家して法皇となりましたが、より馴染みやすい“上皇”のまま、その生涯を振り返ってみましょう。
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神器なし3歳で即位した後鳥羽上皇
後鳥羽上皇が即位したのは、わずか3歳のとき。
当時は平家が、安徳天皇と三種の神器を西国へ持ち去っており、後白河法皇と公家の間では、力ずくで天皇と神器を取り戻すか、それとも平和的に交渉するかで意見が割れていた頃です。
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その中で「いっそ、安徳天皇に代わる新しい天皇を即位させてはどうか」という案が出ました。
となると神器なしの即位となるため、さすがの後白河法皇も慎重になります。
占いをしてみたり、公家・学者への下問を重ねて検討したり。
悩み続けた結果、「神器なき即位」が朝廷で公認され、後鳥羽上皇は即位しました。
しかし、その後もこの”神器なき即位”は、後鳥羽上皇自身と公家たちの間で精神的に尾を引くことになりました。
天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ・草薙剣など異名多々)だけは何度捜索しても見つからなかったとされています。
天叢雲剣は武力の象徴だからこそ
後に、後鳥羽上皇の息子である順徳天皇が承元四年(1210年)に践祚したときは、かつて平家が三種の神器を持ち出す前に、伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を代わりにしています。
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現在もこの剣が熱田神宮に収められているといわれていますね。
その2年後にも剣の探索をさせているあたり、後鳥羽上皇は諦めきれなかったようです。
現代では複数の形代があるといわれていますが、当時は空前絶後のことですから、トラウマやコンプレックスの種になってしまうのも仕方のないことです。
また、天叢雲剣は「天皇の武力の象徴」とされているものです。
正式な武力の象徴を持たなかった後鳥羽上皇が、後に武家のまとまりである鎌倉幕府に敗れた……というのは、なかなかに皮肉な史実ですね。
18歳で譲位してから三代にわたって院政を行う
後鳥羽上皇は幼少だったため、即位後しばらくの間は後白河法皇が院政を行いました。
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12歳になり、後白河法皇が亡くなってからは、関白の九条兼実が政務を取り仕切るようになります。
しかし、頼朝を征夷大将軍にしたことや、頼朝の娘を入内させようとしたことから、次第に後鳥羽上皇との仲が悪くなっていきました。
一方、土御門通親(つちみかど みちちか)の娘が皇子を産んだため、兼実とその娘である中宮・任子は朝廷から追われていきます。
土御門通親は公家である村上源氏の人で、源通親ともいいます。
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後鳥羽上皇は18歳で第一皇子だった土御門天皇に譲位し、その弟・順徳天皇、順徳天皇の息子・仲恭天皇の三代にわたって院政を行いました。
上皇のポジションから政治にたずさわったんですね。
何だか奇妙な話ですが、当時は院政こそ望ましい政治形態だと思われていた時代でした。
「上皇が政治、現職の天皇が儀式を受け持つことでバランスが取れる」という考えもあったようです。
おそらくは、次世代が若い・幼いうちに譲位しておけば、後継ぎとなる皇子が現職の間に産まれる可能性が高まり、皇位継承がスムーズになる……という意図もあったことでしょう。
当時の乳幼児の死亡率からすれば、一人どころか二~三人候補者がいても、疫病などで全滅……ということも珍しくありませんし。
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