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【湊川の戦い】
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準備段階で敗北見えた?湊川の戦い
軍勢は次のようなラインナップでした。
【北朝軍】
足利尊氏・足利直義・高師直
vs
【南朝軍】
新田義貞・楠木正成
双方の中核が出揃ったイメージですね。
尊氏たちは、九州から京都方面へやってきていたので、場所はその手前の摂津国湊川(兵庫県神戸市)で激突することになります。
兵数は不明。
『太平記』では北朝が50万で南朝が5万という、とても信用できる数字ではないですが、ともかく西国武士を味方に付けた北朝軍がかなりの大軍だったのでしょう。
勝敗は、準備の時点で決したも同然でした。
水軍(海軍)も整えて東上した尊氏らに対し、正成や義貞はその用意ができず、陸での戦一本で立ち向かおうとしたのです。
しかも、兵数では尊氏のほうが圧倒的。
水陸両方から徐々に包囲を狭められれば、南朝に打つ手はありません。
こうした敵方の動きに対し、義貞は「ここじゃ勝てない」と判断、一時撤退します。
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新田義貞の功績とは? 尊氏や正成には負けない5つの推しエピソード
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戦の天才である楠木正成も、こうなるとさすがに持ち堪えられるものではありません。
戦場に残った正成は、最後まで激戦を繰り広げながら、最終的には一族揃って自害へと至りました。
※その後、明治時代になって建てられたのが湊川神社(楠公さん・なんこうさん)です
「義貞のアホが逃げたせいで正成が死んだ」のか?
こうした状況から「義貞のアホが逃げたせいで正成が死んだ」と言われてしまうこともあるこの戦い。
あまりに短絡的な見方ではないでしょうか。
不利な状況で潔く死ぬのも美学ですけども、場所を改めて出直すのも立派な戦術です。
そもそも正成と義貞は、出自に大きな差があり、戦に対する考え方も違ったのでしょう。
確かに楠木正成は乱戦や戦闘そのものの天才でしたが、元が悪党(武士以外の階層も含めた戦闘集団)の親分的存在という説もあるほどで、新田義貞は本物の河内源氏です。
歩調を合わせて戦うのも、そう簡単ではないでしょう。
それに、義貞は逃げ帰って一人助かったわけではありません。義貞は場所を改めて再び戦いを挑んでいます。
やはり兵数的には圧倒的に不利だったため、最後は義貞自ら源氏に伝わる名刀・鬼切や鬼丸国綱(御物=皇室のお宝)で奮戦したと伝わります。
要は、命惜しさで正成を見捨てたわけではない――そう考えて間違いないでしょう。
「ここで俺死ぬから!」と言い張っていたのを、部下に「アホか、アンタがいないとダメだろ! はよ逃げんかい!!」と言われて無理やり逃げさせられたほどです。
その部下は身代わりに亡くなったそうですから、義貞の人望も窺えます。

鬼切鬼丸を振るって奮戦する新田義貞/wikipediaより引用
こうして湊川の戦いは尊氏=北朝方の勝利に終わり、ここから南朝が体勢をひっくり返すことはありませんでした。
楠木正成の死がやはり大きかったのですね。
義貞も北陸まで落ち伸び、最後まで戦って討死しています。
そういう意味では正成と同じ死に方をしたともいえますね。
なお、南北朝全体をキッチリ見ておきたい方は、以下の記事にマトメておりますので、よろしければご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
森茂暁『南北朝の動乱 (戦争の日本史8)』(→amazon)
エイ出版社編集部『図解 南北朝争乱 (エイムック 3824)』(→amazon)
湊川の戦い/wikipedia