北条政村

北条政村/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

義時の五男にして元寇前年まで政治家として生きた北条政村の凄さ

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若き執権を支える連署となる

北条泰時のもと、北条政村は一族の一員として兄を支えます。

延応元年(1239年)に35歳で評定衆に就任にすると、翌年に筆頭。

しかし、名執権である泰時が仁治3年(1242年)に没すると、にわかに情勢にほころびが見え始めます。

4代執権には泰時の孫である北条経時が19歳で就任するのですが、身内も含めた周囲の者たちは新体制を軽んじる態度を取り始めます。

泰時と同世代の者も数多くが現役であり、彼らにしてみれば経時ら若造は幼く見えて仕方なかったのでしょう。

例えば、義時と姫の前(比奈)の子・北条朝時、その嫡男である名越光時はこう豪語していたとか。

「俺は義時の孫だ。(5代執権の)時頼など義時の曾孫ではないか」

孫ですらこんな調子ですから、義時の子である北条政村は執権職についてどう感じていたのか?

自らが就任したいと考えたのか。それとも……。

彼には経験があります。

年相応の落ち着き、分別も備えていたはず。

北条が辿ってきた道筋からして、容易に権力へ近づいてはならない――つまり執権の座を狙ってはならないと悟っていたのではないでしょうか。

寛元4年(1246年)に北条経時が病で夭折すると、5代執権にはまだ20歳の北条時頼が就任しました。

2代も若い執権が続くと政治が不安定化するのでしょう。

翌年の宝治元年(1247年)には、ついに三浦一族が滅亡へと追い込まれてしまう【宝治合戦】が勃発。

名付け親である三浦義村の子孫が滅んだとき、政村はすでに43歳になっていました。

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政村は順調に地位を高めてゆきます。

建長元年(1249年)12月に引付頭人になると、建長8年(1256年)、兄・北条重時(母は姫の前)の出家引退に伴い、52歳で連署の地位へ。

連署とは、北条時房以来、執権を支える第二位、いわば右腕、再側近のポジションです。

ついにここまで上り詰めた。

この年には5代執権・北条時頼も出家と引退を表明していました。

政治的な実権は保たれていたものの、時頼は自身が病弱であることを理解していたのです。

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そこで建長8年(1256年)、嫡男・北条時宗に執権の座を譲るまで、中継ぎとして重時の子・北条長時を指名したのですが、この長時も病に倒れてしまい、文永元年(1264年)に没してしまいます。

そして巡り巡ってついに、7代執権の座が政村にめぐってきたのでした。

 

7代執権として8代時宗を導く

まさかまさかの執権職――もはや引退していてもおかしくない文永元年(1264年)7月、60歳での就任です。

連署には14歳の北条時宗が就き、二人で協力して難事に挑む北条政村の治世が始まります。

文永5年(1268年)になると、3年7ヶ月務めた執権職を8代・時宗に譲りましたが、政治上は引退せず、今度は連署と侍所別当を担いました。

よもや永遠に政治家を続ける気ではあるまいか?

そんな突拍子もない冗談が浮かんできそうになった文永9年(1272年)2月、またしても北条一族の内紛が起こります。

北条氏名越流(姫の前を母とする北条朝時が祖)の名越時章・教時兄弟と、六波羅探題南方であり時宗の異母兄でもある北条時輔が謀反を企てたのです。

【二月騒動】と呼ばれるこの事件が起きる頃、海の向こうからは未知の脅威が迫っていました。

金と南宋を倒し、中国を支配した元から敵意を向けられていたのです。

いわゆる【元寇】ですね。

属国になれ――そんなモンゴルからの一方的な要求を突っぱね、真正面からの戦闘で返り討ちにしてやった鎌倉武士、北条時宗、すごい! という見方は不正確です。

戦争にまで発展してしまったのは、王朝との交渉経験が少ない鎌倉幕府の対応に問題があったことも考慮せねばなりません。

幕府は、外交の作法にあまりに無頓着でした。

京都の朝廷とは異なり、外交経験が不足していたのです。

江戸時代末期の幕末は、政治と外交から遠ざかっていた朝廷が幕府の方針に異議を唱えたことが一因となり、政局が混乱しています。

京都の朝廷か?

関東の幕府か?

行政のトップが二ヶ所にあるような状態が外交において混乱を来す状態は、鎌倉時代から江戸時代まで続くこととなります。

なお、元寇に一応の勝利をした北条時宗ですが、このとき北条政村は?

元寇から時計の針を1年戻し、文永10年(1273年)5月、政村は出家をしました。そして常盤院覚崇と号すると、同月27日、69歳で亡くなってしまうのです。

都流の教養を身につけていた政村は、京都の公家衆からも哀悼の意を示されています。

2代執権・義時の子であり、3代執権・泰時に命を救われ、自らが7代執権を務めると、8代執権・時宗の政治を支える――。

まるで北条政権の生き字引のような北条政村。

彼がもしも泰時に誅殺されていたら、鎌倉時代前期はここまで安泰ではなかったかもしれません。

『鎌倉殿の13人』での義時は最期は凄絶なものだと予告されています。

あれほど父・時政と義母・牧の方(りく)の政治工作に呆れていたにも関わらず、まったく同じ醜態を繰り返してしまう義時と伊賀の方(のえ)。

しかし、史実における事件の結末は、時政・義時時代と比べ、はるかに綺麗にまとまりました。

政村は生き延び、幕府を支える礎となったのです。

彼は両親の悪いところではなく、良いところを受け継ぎました。

父からは勤勉さ。

母からは京都流の風雅。

鎌倉と京都の良いところを持ち合わせた人物が、蒙古襲来という新たな困難に立ち向かう時宗の政治的な師となった――これぞ歴史の滔々たる流れであり、ひとつの運命にも思えます。

『鎌倉殿の13人』終結後の時代も、歴史は流れ、進化してゆく。

北条政村が継いだものは、父や叔父、兄のように鎌倉を背負い、支えてゆく覚悟でした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon
坂井孝一『承久の乱』(→amazon
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon

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