あきちえ北条時政の娘たち

北条時政/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

悲劇の最期を迎えた北条時政の娘達~畠山重忠や稲毛重成の妻は何処へ

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あき・ちえ(北条時政の娘たち)
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劇中では尾碕真花さんが演じる時政の娘あき。

稲毛重成に嫁いだ彼女は建久6年(1195年) 6月、 病没してしまいます。

そのことで世を儚み、出家した重成は、3年後の建久9年(1198年)に妻を悼んで相模川に橋を架けました。

しかし、その落成供養に出席した源頼朝が落馬し、そのまま頼朝は亡くなってしまいます。

なんとも数奇な運命ですが、この橋は大正12年(1923年)、液状化現象により地中から出てきて実在が確認されています。

彼女(あき)についてはいったん置いておき、もう一人の妹“ちえ”について注目します。

劇中では福田愛依さんが演じる“ちえ”は畠山重忠に嫁ぎました。

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そして重忠の子・重保を産むのですが、元久2年(1205年)11月、その重保が酒の席で平賀朝雅と言い争いになってしまいます。

後の結果だけ見れば、相手が悪かった、と言うべきか。

平賀朝雅の妻もまた、牧の方を母とする北条時政の娘であり、ちえとは異母姉妹の間柄になるのですが、だからといって事態は治まらず、むしろ悪化。

朝雅の妻が、実母である牧の方に重保への不満を訴えたのです。

構図としてはこんな感じですね。

重忠の妻ちえ(姉)時政と母不明の娘
vs
朝雅の妻(妹)時政と牧の方の娘

不幸の極みとなっていくのは、ここからです。

 

妹とその夫と子同士が争う地獄絵図

時政は牧の方の言い分を全面的に受け入れるカタチで、謀反を理由に畠山重忠を討たせることにしました。

しかも、その討伐に向かわせたのは自身の息子たちである北条義時と北条時連(北条時房)。

結果、重忠と重保の親子は殺されてしまうのです。

◆討たれた重忠は娘ちえの夫(義理の息子)

◆討たれた重保は娘ちえの息子(時政にとっては孫)

悲劇はまだ終わりません。

その後、畠山重忠親子が討たれたのは稲毛重成の讒言のせいだとして、今度は稲毛重成とその子・小沢重政が三浦義村に誅殺されてしまうのです。

義村は重忠と従兄弟ですし、長年の戦友でもあり、許し難かったのでしょう。

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そもそも重忠は謀反など企てておらず、義時も涙を流したほどでした。

流血の連鎖は止まらず、平賀朝雅も山内首藤通基に討ち取られてしまいます。

命令を下したのは北条政子と北条義時であり、もう何が何だかワケがわからなくなってしまいますね。

犠牲者をまとめてみるとスッキリするかもしれません。

【一連の騒動における犠牲者】

◆稲毛重成(あきの夫)……三浦義村に討たれる

◆小沢重政(あきの息子)……三浦義村に討たれる

◆畠山重忠(ちえの夫)……北条時政の命令で北条義時と北条時連(時房)に討たれる

◆畠山重保(ちえの息子)……北条時政の命令で北条義時と北条時連(時房)に討たれる

◆平賀朝雅(きくの夫)……北条政子と北条義時の命令で山内首藤通基に討たれる

いかがでしょう。

身内同士で血で血を洗うまさに地獄絵図。

“あき”、“ちえ”そして“きく”はこんな悲惨な運命をたどるからこそ、ドラマでも出番があるとも言えます。

逆に出番がないことは、平穏無事に生きることができた証。

乱世をモチーフとした大河ドラマであり、仕方がない……とはいえ、ここまで妹一家を血に染め続ける主人公は北条義時くらいしかおりません。

妹を慈しみ、萌えるどころか、彼女たちの涙を思い、苦悩する。

今後ますます北条義時の表情から光が消えてゆくことは間違いなさそうです。

ただし、事態が深刻化したのも骨肉の争いという一面だけでなく、そこには“所領”という御家人たちにとっては非常に重要な要素もありました。

三人の妹たちは、北条時政の娘であること以外にも共通点があったのです。

 

争いを激化させた武蔵の所領問題

共通点とは、夫の所領が武蔵にあったことです。

『鎌倉殿の13人』の公式サイトをご確認いただきますと、武蔵の勢力として以下のような一族が並んでいます。

【武蔵】
・比企氏
・畠山氏
・稲毛氏
・足立氏

ただでさえ血縁関係がややこしいのに、そこに比企氏が入っているのですから、やぶさかではありません。

比企能員とその妻・道は、姻戚関係を駆使して権力を奪取しようとしました。

その一手として、比企尼の外孫である里(郷御前)を、頼朝の弟である源義経の正室としています。

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劇中で、里の父は出てきませんでしたが、これまた武蔵の豪族で河越重頼。

その河越重頼と嫡男・重房が、義経の死より前に、一族の者として誅殺されると、河越氏の職を受け継いだのが畠山重忠です。

このように、パワーゲームにより武蔵では権利の奪い合いといえる状況が発生していたのです。

そんなタイミングで起きたのが頼朝の死。

危ういながらも保たれていたパワーバランスは脆くも崩れ去り、血で血を洗う事態へ発展したのでした。

婚姻によって絆を深めることは有効であり、平安末期から鎌倉時代の坂東では当然のことといえました。

一致団結している間はよい。

しかし、いざ争い事となると、身内同士だけに落とし所が難しく、凄惨極まりない事件となってしまいます。

北条一族は、そんなおそろしい事態に何度も直面するのです。

政子が我が子全員に先立たれたことは、それなりに有名です。

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しかし、そんな政子よりも凄惨な目にあった妹たちがいたことも、今回のドラマで知られることになりそうです。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon
伊藤一美『鎌倉の謎を解く』(→amazon

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