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【大江広元】
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近年では「実朝には子供がいなかったため、将来的に皇族から養子を迎える計画があった。皇族の義父にふさわしい官位を得ておくというねらいだった」という見方も存在します。
また「実朝は『北条氏が源氏を絶やして名実ともに政権の主になりたがっている』と考えていたのではないか」とも。
建保七年(1219年)1月27日の鶴岡八幡宮参詣の際に実朝が暗殺されたため、後者の説を支持する方も多いようです。
当日実朝に随行する予定だった北条義時が、直前になって体調不良を理由に欠席しているので、根拠のない話ではありません。
事件のあらましとは関係ないものの、広元は実朝が八幡宮へ向かう直前、何か不穏なものを感じていたようです。
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吾妻鏡によれば、
「長じてから涙を流したことがないこの私が、なぜか涙が止まらない。不吉なことが起こるに違いない」
と言っていたとか。
そして念のために鎧をつけて行くよう進言したのですが、それは政所別当の源仲章に止められてしまい、悲劇を防げませんでした。
仲章は義時の代わりに急遽付き添い役を務めることになり、実朝と共に斬られてしまったので、なんとも皮肉な話です。
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承久の乱
かくして源氏将軍を失った鎌倉幕府。
当然ながら、政治機関としての機能は続きます。
老体になってきた大江広元も、まだまだ引退はできません。
実は、源実朝の将軍時代、鎌倉幕府と朝廷の関係は良好になりつつありました。
実朝が元服する際に名を定めたのは、ときの治天の君(天皇・上皇・法皇の中で実際に政治を主導している人)だった後鳥羽上皇です。
これはまだ幼かった実朝の後見のような立場になることによって、鎌倉幕府が朝廷の下に置かれているのだということを広く知らしめる目的だったと思われます。
しかし、その実朝が暗殺された上、北条氏などが
「新たな将軍として、後鳥羽上皇の皇子をお迎えしたいのですが」
と主張したことによって、後鳥羽上皇は鎌倉幕府への心証を悪化させていきます。
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新将軍には、摂関家の一つである九条家から男子を出すことでまとまりましたが、その後は不気味な沈黙が広がりました。
後鳥羽上皇の腹は既に決まっており、粛々と軍備を進めていたのです。
そしてついに発令します。
「逆賊・北条義時を討て!」
【承久の乱】の始まりです。
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鎌倉幕府討滅ではなく、義時追討というのがミソですね。
これまで内部対立こそあったものの、朝敵扱いされた御家人たちの動揺は激しいものでした。
北条政子が一喝&演説したことで、御家人たちが団結と冷静さを取り戻した……という話は有名です。
※実際に大声を出したのは別の御家人
当初は箱根・足柄のあたりで上皇軍を迎え撃つという方針でしたが、ここで広元は主張。
「こうして話し合いで日を送っている間にも、どんどん情勢が動いて不利になる。運を天に任せ、とにかく出陣するべきだ」
文官かつ老人であり、兵力もほぼ持たない。
広元が言うと反感を買いそうなものですが……政子が賛成したためか、その点に関しては問題がなかったようです。
その後、準備に数日を費やす間、御家人たちは再び迎撃案に傾きかけました。
広元は再度主張します。
「言った通り、日を置いたせいで意見が割れたではないか。今夜、泰時殿一人ででも出陣すれば、御家人たちは皆ついてくる」
泰時は義時の嫡子であり、後に二代執権となる人物です。
次世代のトップが先頭に立つことによって、御家人たちの士気を上げようという主張だったのでしょう。
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結果、幕府軍が勝利を収めて事は収まります。
ちなみにこのとき、広元の嫡男・親広は後鳥羽上皇方についたため、父子で敵対することになっています。
当然、戦後は親広も処分されていますが、父の所領の一つである出羽寒河江へ隠遁しているため、実質的には助命されました。
伊賀氏の変
朝廷軍と対立したことは、幕府に少々暗いものを残したようです。
承久の乱後、北条義時邸に落雷があり、下男の一人が命を落とす……という事故がありました。
義時はこれを「朝廷を打ち負かした報いではないか」と恐れ、大江広元に相談。
広元は冷静に答えます。
「奥州合戦の際も、幕府軍の陣に雷が落ちたと聞いています。ですから凶兆ではなく、むしろ吉兆でしょう」
広元が実務に加え、精神的な面でも鎌倉幕府の柱になっていたことがわかりますね。
その後、元仁元年(1224年)に義時が急死すると、その正室である伊賀氏と兄・伊賀光宗がこんな陰謀を企てました。
「次の将軍には一条実雅様に就いていただこう。執権には北条政村殿が適任だ」
一条実雅は当時の将軍・九条頼経の母の弟にあたる人物で、頼経が鎌倉に来る際随行し、そのまま補佐を務めていました。
北条政村は泰時の弟で、義時の生前から次期執権の座を狙っており、義時や政子と対立。
伊賀氏にとって都合の良い人物に目をつけたという感じですね。
政子は北条氏の内部分裂を危惧し、広元に諮問します。
「時房に泰時の後見役になってもらって、北条氏の分裂を防ぎたいと思うのです。広元殿はどう思われますか」
北条時房は政子や義時の異母弟です。
奥州合戦の頃から活躍しており、また頼経の将軍就任に関する交渉も行っていて、経験豊富な人でした。
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広元は政子の意見に対し、「それが良いでしょう。むしろ決定が遅すぎるくらいです」と答え、全面支持。
政子の采配で伊賀の方などが流罪となりました。
こうして鎌倉幕府の実質的トップである執権と、それを補佐する連署という構図ができていきます。
★
伊賀氏の変でさすがに騒動も落ち着いた……とホッとしたのか。
嘉禄元年(1225年)6月10日、広元は年来患っていた”痢病”によって世を去ります。
広元の死を知った多くの在京御家人が鎌倉へ下ったとも記録されており、存在の大きさがうかがえますね。
それから間もない同年7月11日、北条政子も亡くなり、鎌倉幕府初期からの重鎮は全員世を去りました。
以降は北条泰時と北条時房を中心にした、御家人の集合体である【評定衆】によって政治が主導されていきます。
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長月 七紀・記
【参考】
上杉和彦『大江広元(人物叢書)』(→amazon)