大江広元

大江広元/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

大江広元がいなければ鎌倉幕府は運営できなかった?朝廷から下向した貴族の才覚

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守護・地頭

文治元年(1185年)は、守護・地頭が設置された年でもあります。

吾妻鏡では、広元が長々と演説をし、それを頼朝が容れた……というような書き方になっています。

ゆえに近年までの書物では、そこが強調され

「守護・地頭が設置されたのは、広元の献言による」

とする事もままありました。

しかし、原型にあたる役職が既にあったことなどから、広元が独自に考えだした制度とは言いがたい……というのが現実のようです。

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この間に【壇ノ浦の戦い(1185年)】で平家は滅亡しています。

広元は公家出身かつ文官であるため、戦そのものとは無関係であり、それは義経と奥州藤原氏を追い込んだ【奥州合戦】でも同じ。

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むしろ、戦後処理が本領発揮の場面です。

奥州合戦の場合は特殊な事情もありました。

頼朝は後白河法皇に奥州討伐の院宣を求めながら、朝廷では意見が割れ、なかなか院宣が出ませんでした。

焦れた頼朝は院宣なしでの出兵を決断。

奥州藤原氏が滅んだ後に院宣が届きましたが、体裁上マズいわけで辻褄を合わせなければなりません。

そこで広元が既成事実を正当化するため京へ交渉に向かいます。

迎える後白河法皇としても、すでに義経や奥州藤原氏が討たれ、頼朝と対立する理由や地盤はありません。

そこで、頼朝や奥州合戦で功のあった御家人たちに対して「恩賞を与える」という意向を示しました。

頼朝は、広元にこう言い含めておきました。

「院からの恩賞は辞退せよ。ただし、特に功があった者については配慮するように」

なぜ頼朝はこのような言い方をしたか?

というと、御家人たちはあくまで頼朝の配下であり、後白河法皇とは無関係だから。

御家人たちに与えられる恩賞は、頼朝からでなければ、第二第三の義経が生まれないとも限りません。

そういった理由で、広元は

・頼朝の意向を汲み

・後白河法皇への体面を取り繕い

・御家人たちが不満を積もらせないように後処理をする

という胃の痛くなる仕事をすることになったのです。

文治五年秋、広元が京へ出発する際、多くの御家人が見送りに来たそうですから、どれほど期待されていたか……ますますプレッシャーですよね。

そしてそれから3ヶ月ほど経った翌文治六年(1190年)春。

京から広元が帰還しましたが、残念ながら具体的にどのような交渉を行ったのかまでは記録されていません。

まぁ、大過なく適切に対応したのでしょう。

広元は、その後、頼朝が上洛する際も、兄・中原親能と共に関係各所へ贈り物の手配などを請け負っていて、さらには頼朝よりも前に京へ出発。

滞在一ヶ月ほどで頼朝が鎌倉へ戻ってからも、しばらく広元は留まりました。おそらくや朝廷と幕府の間で様々な交渉を行ったのでしょう。

しかし、その存在感の強さが新たな問題を生んでしまいます。

後白河法皇が、広元に様々な官位を与えようとしたのです。

むろん頼朝はいい顔をせず、「職を辞すように」と広元に命じ、すぐに明法博士を辞任します。

全ての職を一度に辞めなかったのは、後白河法皇らへの配慮でしょうか。

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この後、後白河法皇が病に伏した際、広元は見舞いの使者を務め、その京都滞在中に左衛門大尉と検非違使を辞任しています。

これで頼朝は溜飲を下げ、事態の悪化は避けられました。

 


頼朝の死

建久3年(1192年)3月に後白河法皇が薨去すると、頼朝はかねてから望んでいた征夷大将軍に任官。

あらためて御家人統制と政治機関の整備に取り掛かり、広元も実務に携わりました。

このあたりから、広元は御家人と頼朝の間をつなぐ取次役としての役目を強めていきます。

それは自らの立場を明確にさせると同時に、御家人たちの不満を直接受けることになりました。

現代の中間管理職のようなイメージでしょうか。

建久六年(1195年)には、東大寺の落慶法要と大姫入内の交渉のため、頼朝が二度目の上洛。

広元も、東大寺や天王寺などへ参詣する頼朝のお供をしたことが記録されています。

ただし、朝幕関係が良好だったのもこの頃までで、両者の間には、徐々に暗雲が垂れこめていきます。

当時、政治を取り仕切っていた九条兼実が、源通親と後白河上皇の愛妃だった高階栄子(丹後局)によって、関白を罷免されてしまったのです。

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通親と頼朝は大姫入内に向けて協調していました。

しかし、通親が先例を無視して強引に進めるところが目立つようになり、両者の関係は次第に悪化。

さらに、後鳥羽天皇が通親の外孫でもある土御門天皇に譲位したため、頼朝はこれ以上通親が権力を強めることに懸念を抱きます。

そこで、頃合いを見計らって自ら上洛し、兼実の政治復帰に向けて動こうとしていたようですが……建久十年(1199年) 1月、他ならぬ頼朝が急死してしまいます。

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突然の頼朝の死。

源氏の家督と将軍の座は嫡男の源頼家が継ぎ、問題ありません。

しかし、いかんせん突然のことであり、不穏な空気が漂いながらのスタートとなります。

広元は、引き続き重臣として仕え、同年4月には十三人の合議制が発足、源頼家の政治主導が禁じられました。

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この中に北条氏によって滅ぼされた御家人も数名いるため、同氏による独裁への第一歩とする向きもありますね。

広元や中原親能など、公家出身者も数名含まれています。

吾妻鏡では、

「頼家が従来の慣習を無視したので、それを止めるために合議制が作られた」

ということになっていますが、真相ははっきりしていません。

この三ヶ月の間に何があったのでしょうね……。

 


梶原景時の変

いずれにせよこの合議制は、頼家から見れば、13人ものうるさ型に監視されているようなもの。

大きく反発し、近習の若者たち5人を指名して、彼ら以外には目通りを許さないという強硬な姿勢を見せました。

たしかに身分は上ながら、経験が浅く、自負も強い頼家。

戦場で、あるいは政治の場で頼朝の時代を生き抜いてきた御家人たち。

その中で、広元は両者の仲立ちのような立ち位置になっていきます。

建久十年の秋、梶原景時の変が起きました。

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このとき、景時を弾劾する連判状が作られ、その人数はなんと66人にも及んだといいます。景時の評判、推して知るべし。

そして、この連判状は、まず広元に提出されました。

先述の通り、頼家は近習の若者以外からの取次は受けないと言い張るほど反発していましたが、広元は別だったのでしょう。

しかし、広元からすれば実に処理に困る案件です。

景時は私欲のために事実を捻じ曲げるようなことはしていませんでしたし、この時点では貴重な「文字の読み書きができる武士」でした。

文官である広元としては、几帳面に記録や報告をしてくれる景時に、悪い印象はなかったでしょう。

ですが、66人もの御家人から恨みを買っているようでは、ここで不問にしたとしても禍根が残ります。

景時をかばえば広元、そして頼家に矛先が向く可能性もあり、幕府の崩壊にも繋がりかねません。

広元はしばらく連判状を手元にとどめておいたものの、御家人たちにせっつかれ、渋々頼家に取り次ぎました。

結果、景時は鎌倉から退いた後、正治二年(1200年)正月、景時は一族を率いて上方へ出発。

その道中で討ち取られ、なんともスッキリしない幕引きとなったのでした。

この結末について、広元がどのように報告を受けたのか、何を思ったか、そういったことは全くわかりません。

吾妻鏡でも、追討のあらましを頼家の前で記録として読み上げた、としか書かれていないのです。うーん。

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