熊谷直実

逃げる平敦盛(左)と追う熊谷直実(右)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

熊谷直実は典型的な坂東武者だからこそ鎌倉殿の13人には登場できず

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人間五十年

なんと立派な心がけであろうか。

美童武士の凛とした姿に胸を打たれ、『なんとか逃してやれないか?』と考えた直実。

しかし、現実は甘くありません。

勝利に勢いづく味方の軍勢もすぐ背後までやってきていて、もはやこの少年には死しかない――そう悟った直実は涙を落としつつ、若者の首を刎ねました。

首実検の結果、彼は平敦盛と判明しました。享年17。

平敦盛/wikipediaより引用

このとき直実は、形見の笛または篳篥(ひちりき)を拾い、敦盛の父・平経盛に贈ったとされます。

同時に熊谷直実は、武士の世の、人の世の虚しさを痛感。

『こんな世からは逃れたい……』

そんな焦燥に駆られ、彼は何かを失ってしまいます。

こうした直実の心情と、敦盛の最期の様子が、世阿弥作の能『敦盛』として残され、後世、織田信長が愛することとなりました。

ゲームや漫画でお馴染み、あの舞です。

人間五十年

下天(げてん)の内をくらぶれば

夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり

一度(ひとたび)生(しょう)を得て

滅せぬ者のあるべきか

『信長公記』の記録によると、織田信長は【桶狭間の戦い】前に『敦盛』を舞ったとされます。

勝っても負けても、夢幻の如くなり――。

今川義元の途方もない大軍を前にして、そんな吹っ切れた心情になったのかもしれません。

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領地争いに政争と苦難の日々

期せずして若き美童の武士・平敦盛を討ってしまった熊谷直実。

その後は苦しみと共に鎌倉幕府に付き従います。

「さっきからイケメンを重視しすぎじゃないか?」

そう思われるかもしれませんが、当時は現在よりはるかに見た目が重視されていて、その感覚自体はさほど問題ではありません。

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直実にとって辛かったのは、政権の樹立に伴い、武家の世界に政治闘争が持ち込まれたことでした。

鎌倉幕府の草創期は、血生臭い事件が多発します。

その多くが、領地問題や政権内での立ち位置から発展して騒動になるという展開は、『鎌倉殿の13人』でも散々描かれたのでご存知でしょう。

典型的な武蔵の坂東武者である熊谷直実も、不満が鬱積していました。

例えば文治3年(1187年)に行われた鶴岡八幡宮での流鏑馬――ここで直実は的立役(まとたてやく)に任じられました。

直実は激怒します。

なぜなら歩行役(かちやく)は彼のような御家人にとっては低い役割だったからです。

弓矢の名人であり、かつて頼朝に「日本一の剛の者」と称えられた直実からすれば、頼朝お得意のリップサービスだとしても許せなかったことでしょう。

敵を討って領土を広げればよい。

鎌倉の御家人たちにとって、そんなシンプルな日々は終わってしまったのです。

また直実は、領地問題も抱えていました。

熊谷郷の領有を巡り、鶴岡八幡宮や久下直光と争いが生じていたのです。

特に建久3年(1192年)から始まった久下直光との争いは、ストレスが溜まりました。

頼朝の前での弁論において、口下手の直実はうまく言い返せず、ついには不満を怒鳴ると書類をぶちまけ、髻を自ら切り落とし、行方をくらましてしまったのです。

ここでの直実の言い分は、後の動乱を予見させるものでした。

梶原景時が相手ばかりを贔屓にしている! これでは負けるに決まっているじゃないか!」

そう叫んでいたとされます。

武勇のみならず実務能力と知謀に長けた梶原景時。

それがかえって仇となり、御家人からの不満を集めていたことがうかがえる言葉です。

御家人たちの不満が積もり積もって、最終的に鎌倉から追い出され、その途中で討死したことは『鎌倉殿の13人』でも描かれましたね。

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土地を巡る口論は、不得手な御家人にとってはストレスの要因でもあり、熊谷直実もまたその典型的な武士だったのです。

では、鎌倉を飛び出して何処へ向かったのでしょうか?

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