熊谷直実

逃げる平敦盛(左)と追う熊谷直実(右)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

敦盛を討ち取った坂東武士・熊谷直実~鎌倉での政争や粛清に疲れ果て法然の元へ

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鬱積するストレスに耐えきれず出家

平敦盛を討ち取り、抱えてしまったPTSD。

土地や立場を巡り、鬱積していく幕府でのストレス。

ついに爆発してしまった熊谷直実が目指したのは出家でした。

鎌倉仏教【浄土宗】で知られる法然に面談を求め、弟子の前で刀を研ぎ始めて自害(自傷)を匂わせたため、ついに対面が叶いました。

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法然は直実をこう諭します。

「罪の軽重は問いません。ただひたすら念仏を唱えれば往生できましょうぞ」

己の罪を償うためには、自刃か手足を切り落とすしかない……とまで思い詰めていた直実にとって、この言葉はまさに救いであり、心が晴れました。

坂東武者と言えば、荒ぶる存在、敵の生死など顧みない武神のようにも思われがちですが、さにあらず。

勇猛果敢である一方、罪の意識に苛まされていたのですね。

これは何も熊谷直実だけでなく、鎌倉の御家人たちは信心深く、厳かな仏事を行っていました。

仏僧は武士たちにカウンセリングを施す貴重な存在だからこそ、鎌倉仏教も広く普及していったのでしょう。

直実の出家時期については詳細が不明です。

法力房蓮生として出家すると、その後は多くの寺を開基し、信仰に生きていたことが伝えられます。

そして建永元年(1206年)ころから、幾度も極楽往生予告をしました。

そのせいもあってか、没年および死の状況には複数の説があります。

本稿では承元2年(1208年)9月14日、京都東山草庵で往生したという説とさせていただきます。

享年68でした。

 


典型的な鎌倉御家人だった

熊谷直実は、後世になり、作中の脇役として数多く扱われました。

平家目線であれば、美しく健気な敦盛の悲劇を彩る人物として登場。敦盛を手にかけたことに苦しんだことが、出家の動機とされました。

法然を讃える物語であれば、苦しみながらも立派な弟子となった直実もまた欠かせぬ人物です。

史実の鎌倉御家人として見ても、彼こそ典型的な武士と言えます。

源義朝に味方したとはいえ、石橋山の時点では日和見していた。

それでも時代の趨勢を読んで頼朝につくと、天才・源義経という大嵐に巻き込まれ、平家の美しき若武者・敦盛を手にかけてしまう。

幕府成立後は己の武勇を認められぬことに憤激し、境相論(領地争い裁判)では口下手で苦労。

梶原景時に不満を抱き。

仏教に救いを求める。

当時の坂東武者であれば「わかるわ、その気持ち、わかる!」と頷く要素が溢れているのです。

一方で、直実と対照的な人物もいます。

極めて冷徹で合理的、源頼朝のブレーンであった大江広元です。

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承元2年(1208年)に直実の子・熊谷直家が上洛を希望しました。

「父がかねてから京都東山で往生を遂げると予言していまして。実現するかどうか見届けるためにも上洛したいのです」

すると広元はこう返しました。

「観音菩薩の化身でもない生身の人間が、死期を事前に知ることなんてできるわけないでしょ」

現代人ならば、大江広元の言葉がもっともだと頷く場面ですが、当時はこうなります。

「うわっ、なんて冷たい人なんだ!」

熊谷直実・直家父子と大江広元の言動と、そのことへの反応から、中世人の持つ熱いメンタリティを伺うことができます。

歴史において偉業を成し遂げたわけではない。

エピソードが目立ち過ぎて邪魔なせいか、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には登場できていない。

しかし愛すべき鎌倉御家人の典型として、熊谷直実という人物は実に貴重な存在だと思うのです。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon
上杉和彦『大江広元』(→amazon

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