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【熊谷直実】
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鬱積するストレスに耐えきれず出家
平敦盛を討ち取り、抱えてしまったPTSD。
土地や立場を巡り、鬱積していく幕府でのストレス。
ついに爆発してしまった熊谷直実が目指したのは出家でした。
鎌倉仏教【浄土宗】で知られる法然に面談を求め、弟子の前で刀を研ぎ始めて自害(自傷)を匂わせたため、ついに対面が叶いました。
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法然は直実をこう諭します。
「罪の軽重は問いません。ただひたすら念仏を唱えれば往生できましょうぞ」
己の罪を償うためには、自刃か手足を切り落とすしかない……とまで思い詰めていた直実にとって、この言葉はまさに救いであり、心が晴れました。
坂東武者と言えば、荒ぶる存在、敵の生死など顧みない武神のようにも思われがちですが、さにあらず。
勇猛果敢である一方、罪の意識に苛まされていたのですね。
これは何も熊谷直実だけでなく、鎌倉の御家人たちは信心深く、厳かな仏事を行っていました。
仏僧は武士たちにカウンセリングを施す貴重な存在だからこそ、鎌倉仏教も広く普及していったのでしょう。
直実の出家時期については詳細が不明です。
法力房蓮生として出家すると、その後は多くの寺を開基し、信仰に生きていたことが伝えられます。
そして建永元年(1206年)ころから、幾度も極楽往生予告をしました。
そのせいもあってか、没年および死の状況には複数の説があります。
本稿では承元2年(1208年)9月14日、京都東山草庵で往生したという説とさせていただきます。
享年68でした。
典型的な鎌倉御家人だった
熊谷直実は、後世になり、作中の脇役として数多く扱われました。
平家目線であれば、美しく健気な敦盛の悲劇を彩る人物として登場。敦盛を手にかけたことに苦しんだことが、出家の動機とされました。
法然を讃える物語であれば、苦しみながらも立派な弟子となった直実もまた欠かせぬ人物です。
史実の鎌倉御家人として見ても、彼こそ典型的な武士と言えます。
源義朝に味方したとはいえ、石橋山の時点では日和見していた。
それでも時代の趨勢を読んで頼朝につくと、天才・源義経という大嵐に巻き込まれ、平家の美しき若武者・敦盛を手にかけてしまう。
幕府成立後は己の武勇を認められぬことに憤激し、境相論(領地争い裁判)では口下手で苦労。
梶原景時に不満を抱き。
仏教に救いを求める。
当時の坂東武者であれば「わかるわ、その気持ち、わかる!」と頷く要素が溢れているのです。
一方で、直実と対照的な人物もいます。
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承元2年(1208年)に直実の子・熊谷直家が上洛を希望しました。
「父がかねてから京都東山で往生を遂げると予言していまして。実現するかどうか見届けるためにも上洛したいのです」
すると広元はこう返しました。
「観音菩薩の化身でもない生身の人間が、死期を事前に知ることなんてできるわけないでしょ」
現代人ならば、大江広元の言葉がもっともだと頷く場面ですが、当時はこうなります。
「うわっ、なんて冷たい人なんだ!」
熊谷直実・直家父子と大江広元の言動と、そのことへの反応から、中世人の持つ熱いメンタリティを伺うことができます。
歴史において偉業を成し遂げたわけではない。
エピソードが目立ち過ぎて邪魔なせいか、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』には登場できていない。
しかし愛すべき鎌倉御家人の典型として、熊谷直実という人物は実に貴重な存在だと思うのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
上杉和彦『大江広元』(→amazon)
他